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町指定史跡 畑谷城址

天正二年(1574)畑谷を伊達輝宗が攻撃していることから天正初年には存在したとされ、慶長五年(1600)の出羽合戦では直江兼続らの攻撃により落城し、五百人余りが討ち取られた。

町指定史跡 畑谷城址の来歴

伊達輝宗日記

   四月

十五日、天き上々、かせふく、あらとよりの到来、はたやへてきれ、さかいのさハにて一戦候て、てき一人うち候、

   五月

四日、天き上々〳〵〳〵、あらとへいなは指越候、はたやへてたて候へとて、たくミ所へまかる、せのうへ殿ニ合候、ひやうつよくふる、

   六月

四日、天き上々、夜はたやニむかつて火手見え候、同ろしつくりのため動地、しゆはちはりうやけ候、

七日、天きよし、くもる、はたやへ動、その夜ハ中山にとまり候、もりおき御遠行候とて、せつたいへあいつより使参候、ちうけん、五日ニ御越度候と申候、

『山形県史 史料篇15上 古代中世史料1』

最上義光感状写

今度直江山城守はたやむかいちんとり、やなさハまへニて いくさ取むすび、其方くミうち仕、其しるしもたせ候事、前代有之間敷候、殊ニふか手をおい申、よく〳〵養生可申候、則召出しほうひいたし候、委ハ寒河江肥前可申渡候、以上、

九月十三日   義出(花押ヵ)

(充所欠)

最上義光書状

(切掛ウハ書)
「伊上刕様 参人々御中 山出羽ゟ」

夜前者御懇之御返礼、忝存候、以参上可申述候へ共、敵之様子不相知候間、先書状を以申入候事候、谷地ニ敵相籠候、又はたや筋之陳取候間之儀者、是非共無御由断候て可被下候、今五日・十日之間之儀候て、あとの御辛労もあらハれ申儀ニ候間、去迚ハ〳〵、此境被入御念可被下候、恐惶、かしく、

   十三(慶長五年十月三日)

『山形県史 史料篇15上 古代中世史料1』

山辺町文化財指定 第七号 畑谷城址

山形最上氏は、置賜、下長井地方に通ずる要衝の地である畑谷にその部将江口氏を配置して、置賜との境を守らせていた。江口氏は東黒森山の尾根続きの館山に、山頂を本丸として、各所に空堀を配した山城を築き、その任に当たった。館山山頂は、標高五百四十九米で、山形城を遥かに一望でき、山麓低地との比高は、約七十米である。南方は急斜面で、白鷹方面を直視し、西方は山続きとなっている。

慶長五年(一、六〇〇)関ヶ原の戦にあたり、上杉家直江山城守は、主力軍約二万をひきいて、荒砥から進撃し、山形城を目指して途中の畑谷城に迫った。九月十三日江口道連(光清)は手勢を指揮して迎え撃ったが約二時の戦いで敗れて、自刃し落城した。山城の攻防戦としては、山形県下に於いて代表的なものである。

最上家との義に殉じ、不利な山間の山城で散った江口公とその一党の事蹟には特筆されるものがある。墓地の奥地には、江口公のお墓と彼の義に生きた生涯を顕彰する碑が建てられている。

山辺町教育委員会

『現地案内板』より

町指定史跡 畑谷城址へのアクセス

  • 〒990-0361 山形県東村山郡山辺町畑谷
  • JR左沢線「羽前山辺駅」よりバスで「畑谷」下車、徒歩6分
  • 東北中央自動車道「山形中央IC」より車で25分

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