赤館跡の来歴
赤館
赤館の南面に降る雨は久慈川となって関東を潤し、北面は阿武隈川となって奥州を潤す。標高わずか三四五mのこの丘陵は関東東北の分水嶺であり、文化の交差点であり、軍事的要衝だった。
鎌倉初期この赤楯(館)は伊達氏が得た飛び地であったが、南北朝以後白川結城氏の一円(直轄領地)となった。応仁の乱の時、白川結城氏は京以上の文化を花咲かせた。
一五一〇永正一〇年戦国大名の佐竹氏は白川結城氏の依上保(大子を含む北茨城県)を支配した。やがて佐竹氏は東館・羽黒館(塙)・流館(近津)等と赤館以南の九南郷館を支配した。
一五七一元亀二年白川義親は南郷の領土奪回にでて南郷一帯で激戦となった。これを好機と小田原の北条氏が佐竹家臣の下妻城を攻めたので、佐竹は赤館を放棄する和睦を結び、南転して行った。この年は信長が延暦寺を焼討した年であったが、朝倉が戦火に蹂躙された年でもあり、以後毎年のごとく棚倉は戦禍を被った。
一五七五天正三年佐竹は前年に続いて赤館を攻めたが葦名・結城連合軍が撃退する。この時葦名軍は付近の稲を青刈した。青刈りはやがて精ある結城の武将斑目兄弟の悲劇となる。戦国無情の感がある。
ー五九〇天正一八年正月伊達政宗は「七草を一葉によせて摘む根芹」と謳歌した。七草とは白河が入る七部で、伊達氏は分国を挟むことなくこの赤館で佐竹氏と対峙した。今も南麓の川はこの時城攻めに掘ったものと伝えられている。しかし、同年の秀吉の「奥州仕置」で白川結城氏は消滅し、棚倉は佐竹領地と公認された。
徳川の天下となると、佐竹は秋田に追われ棚倉は天領となった。一六〇九慶長十四年立花宗茂が五万石赤館城主となった。翌年城の東に遷宮した宇賀神社は、今も棚倉町の氏神と栄えている。
一六二二元和八年丹羽長重が五万石赤館城主となった。赤館は戦国の館に過ぎないので、五万石に相応しい家臣団を擁する城郭でなかった。かって越前等一二三万石を支配した長重は、二年後から現在の城跡の地に平地城を築城しはじめた。以後の赤館は廃棄された。長重は粗壁の乾かぬうちに白河十万石に転封され去った。
一六二七寛永四年内藤信照が五万石棚倉城主となると築城と同時に、城下町特有の町形につくり、検断や名主を置き経済の中心地とした。
一六二九寛永六年京都大徳寺の玉室和尚が棚倉に流され、沢庵は上山に流された。中世的権利を主張する後水尾天皇の怒りを静めるため家光の乳母斎藤氏(春日局 )が参内したが、天皇は皇女興子内親王に譲位するほどの紫衣事件であった。信照は根小屋観音堂の側に小庵を建て玉室を加護した。この草庵跡に「玉室宗珀謹居之跡」の大石碑あり、付近で「南無阿弥陀仏」と書かれた小石が見つかると古老は語る。
一七八三天明の飢達で根小屋村が減んだ。山上に城のある麓の城下町を根小屋というが赤館の麓にも根小屋村があった。眼下の川は根小屋川と言い、根小屋堰は御城水と呼ばれ城堀に清水を注いだ。
誰が名付けたか赤館と呼ばれ、古代人の足跡の上に、堀跡があり、その上に舘跡があり、その上に公園がある。人間の汗と涙と喜びで綴る祖先の生活を私たちに物語ってくれる。現在の平和で活力のある棚倉の幸せを語ってくれる。未来の子孫もここから紺碧の空と四方の緑と眼下の街と川に愛着を感じ、家族を慈しみ町を愛し続けてくれるであろう。赤館は単なる遺跡や公園ではない。棚倉人の心の盾として生き続ける聖地だ。
郷土史家 澤田周作
『現地案内板』より
【一六〇〇】佐竹東義久書状
急度申越候、会津へ為御手合、南郷保高倉衆被指越候、今宮をも越被申之、南郷惣之足軽いつものことく催促可然候、手つもり之儀者、赤館・寺山・羽黒辺之衆をも一手ニ可然候、其方事者、其儘滞留尤候、十日已前御手合たるへく候間、よをもつて日をつき、さいそく候へく候、羽黒之儀者、近比ニ談合可被致之候、ありさか程近候間、用心の心へも有へく候、恐々謹言、
(天正十七年ヵ)七月六日 義久(花押)
安藤肥前守殿
『棚倉町史 第2巻 古代・中世資料編』
【508】某宛書状
自是可申述候処ニ、御使儀一段祝着不浅候、」仍以書付承儀共、一々得其意、存分申」渡候、尤御塩味此時ニ候、次ニ赤館普請」付而、中書被打越候欤、珍敷子細候者、」後節ニ可承候、残余彼口上ニ可有之候間、」不能具候、恐々謹言、
(天正十七年ヵ)拾月七日 政宗(花押)
(宛所欠)
『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』
赤館跡へのアクセス
- 〒963-6131 福島県東白川郡棚倉町棚倉風呂ケ沢
- JR水郡線「磐城棚倉駅」より徒歩25分
- 東北自動車道「白河IC」より車で38分
- あぶくま高原道路「矢吹中央IC」より車で28分