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町指定史跡 山野辺城址

山野辺刑部の築城と伝わり、以来山野辺氏が城主であったとされるも詳細は不明、慶長六年(1601)最上義光四男の義忠が当城に封ぜられ、輪郭式の平山城として整備された。

町指定史跡 山野辺城址の来歴

山辺町指定文化財 第九号 山野辺城址

山野辺城は、平安時代の前九年の役で知られる奥羽地方の戦乱時に須賀川山辺氏が領有築城したという。室町時代になると山野辺氏の活躍が伊達家や各地の記録にみえるし、軍記物語にも最上氏配下の武将として登場し、信頼に応えた大きな働きをしている。

その当術の城郭は、宝暦十一年(一七六ー)の古絵画によると、旧役場跡地から山辺小学校プールまでの東西四十間(七十三米)南北五十六間(百二米)の台地に置き、その周囲をめぐる山辺小学校、中央公民館、オリエンタルカーペット株式会社等が位置する東西百十六 間(二百十米)南北百八十間(三百二十七米)の丘陵地を副郭とする輪郭式の平山城であったものと思われる。西郭の出羽丘陵から村山盆地に向けて突き出た丘陵部の舌端部を利用し絶好の位置に立地した中世の城郭であった。

慶長六年(一六〇一)一万九千三百石で山野辺城主となった山野辺義忠は領主として約二十二年間の治世の間に数多くの業績を上げ、最上宗家の当主として期待された程の人物であった。特に、山野辺城池の完成と城下町の整備に意を注いた。

近世の越下町なので平凡な縄張になっているが、随所に工夫が見られる。周囲に三の堀をめぐらして城池を拡張し、西郭は山間部から見下ろされるので四の堀を用意し、北西部には出丸を設けて防備を固めている。道路は直線状ではあるが微妙に曲がって見通しを妨げ、各道路間は三叉路の連絡で直進できないようになっている。各街道の出入口には寺院を配置し、戦闘場面での防御陣地を想定している。

しかし、元和八年(一六二二)最上氏の左遷により山野辺城は破壊されてしまった。

文政六年(一八二三)白河藩阿部氏は出羽国の飛び地を支配するために旧山野辺城二の丸内に陣屋を設けた。その玄関は幾多の変遷を経た後、町文化財として指定、保存されている。現在、山野辺城の遺構は残るものが僅かになってしまったが、大切に保存し永く先人の血と汗の偉業を称えたいものである。

山辺町教育委員会

『現地案内板』より

町指定史跡 山野辺城址へのアクセス

  • 〒990-0301 山形県東村山郡山辺町山辺
  • JR佐沢線「羽前山辺駅」より徒歩12分
  • 東北中央自動車道「山形中央IC」より車で10分

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