ローダーイメージ
Night Mode Night Mode
Day Mode Day Mode

県指定史跡 丸岡城跡及び加藤清正墓碑

戦国時代、押切備前守の築城と伝え、寛永九年、熊本藩主加藤忠弘が改易され庄内藩主酒井忠勝に預けられた際、忠広は父清正の遺骨と共に当城に移ったという。

県指定史跡 丸岡城跡及び加藤清正墓碑の来歴

山形県指定史跡 丸岡城跡及び加藤清正墓碑

丸岡城は、鎌倉時代から天正年間まで当地方を治めた武藤氏の時代、大梵字(鶴岡)の南方、六十里越口と大鳥越口おさえの要地として、後に武藤家尾浦城主となった丸岡兵庫頭義興が在城した。武藤氏のあと上杉氏、さらに最上氏が領有したが、元和元年(一六一五)の一国一城令により城の楼閣は取り払われた。最上氏改易の後、元和八年(一六二二)酒井氏領となった。

寛永九年(一六三二)、加隊清正公の嫡子・肥後五十四万石の領主加藤忠廣公が幕府に領地を没収され、庄内藩酒井氏に預けられた。酒井氏は、この城跡に忠廣公と生母正応院様の居館、女中の長つぼね、家臣の長屋などを新築した。この館が丸岡大火によって消失したため、忠廣公が京都にあった館を移築し、承応二年(一六五三)忠廣公逝去まで居住した。

忠廣公没後、領地は幕府御領となった。

城跡の広さは約二haで、南側の一部は住宅地となり、ほかは主に畑地となっている。四方を囲む堀のうち残っていた北側部分が復元され、邸内に今も姿をとどめる奥庭の泉水(百間堀)と庭石(神子石、太夫石)がわずかに往時を偲ばせている。

昭和三十八年、この「丸岡城跡」は昭和二十四年の発堀調査によって推断された「加藤清正墓碑」とともに山形県指定史跡となった。

櫛引町教育委員会
櫛引町観光協会
加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会

『現地案内板』より

加藤忠廣公配流

肥後(熊本)五十四万石の領主・加藤清正公は豊臣秀吉の重臣で、知・仁・勇の三徳を兼ね備えた名将としてあまりにも有名である。慶長十六年(一六一ー)清正公が亡くなり、その後を弱冠十歳の忠廣公が継いだ。

寛永九年(一六三二)六月、忠廣公は突然幕府から身に覚えのない嫌疑をかけられ、申し開きも許されずに、領地没収の上、庄内藩酒井氏に御預けとなり、堪忍分として一万石が与えられることとなった。その嫌疑の内容は曖味なものであったらしく、忠廣公は幕府の外様大名お取り潰し政策の犠牲となったとみられている。

申し開きのため江戸へきた忠廣公は、参府を許されず、待機していた池上の本門寺から、そのまま配流先の庄内に向かった。家族のうち忠廣公に同行を許されたのは生母の正応院様のみで、妻や子、兄弟は四散させられた。

鶴岡に着いた一行は、丸岡に新築する居館の完成を待つため、南町の常念寺に仮住まいし、約二か月後の八月下旬にこの地に移住した。

以来、忠廣公は許される日の来ることを期待しながら、二十二年後の承応二年(一六五三)六月、悲運の生涯を閉じた。その二年前、正応院様も他界されている。

忠廣公を預かった酒井氏の温かい配慮によって、流罪の身とはいっても、丸岡の住民との交流をはじめ外部との住来などもかなりあったようで、それにまつわるエピソードや品物が伝わっている。

数々の悲劇と謎につつまれた加藤家終焉の地である。

櫛引町教育委員会
櫛引町観光協会
加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会

『現地案内板』より

山形県指定史跡 加藤清正墓碑

昔から、加藤忠廣公配流のとき密かに清正公の遺骨を運び、この地に葬ったという言い伝えがあり、大正年代に熊本からも発堀調査の要請があったが、時期尚早と断っていた。

昭和二十四年になって漸く調査を実施することとなり、清正閣、神子石・太夫石の調査の後、右手の世代墓地中央の開基様と呼ばれていた五輪塔の下に、肥前(佐賀県)弓野焼の遺骨壺を発見した。それまでの経緯と五輪塔や一六〇〇年ごろに製作された弓野焼の壺を用いていることなど総合的にみて、清正公の墓碑と判断された。

昭和三十八年、山形県指定史跡となり、後に遺骨壺とともに現在の覆堂に納められた。

櫛引町教育委員会
櫛引町観光協会
加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会

『現地案内板』より

清正閣

加藤忠廣公と正応院様は、清正公の御遺骨を密かに捧持し、居館奥庭の太夫石の元に休め、丸岡大火の翌年に天澤寺世代墓地の五輪塔の元に安置した。この清正閣も五輪塔、神子石・太夫石とならぶ重要な史跡である。

はじめは土饅頭の上に石碑が載っていたのみであったが、天保年間に祠を建てた。中の鉾型の碑は、熊本特産の島崎石であり熊本から運んだものである。

昭和二十四年、清正公遺骨探索の調査では第一番目にこの閣の下が発掘され、その結果、地下二mの地点から清正公着用と推定される鎧が出土し、天澤寺に保存されている。尚、そばの小さな五輪塔は、密かに野に下した忠廣公の子供のものといわれている。

櫛引町教育委員会
櫛引町観光協会
加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会

『現地案内板』より

県指定史跡 丸岡城跡及び加藤清正墓碑へのアクセス

  • 〒997-0334 山形県鶴岡市丸岡町の内36
  • JR羽越本線「鶴岡駅」よりバスで「協立リハビリ病院」下車、徒歩15分
  • 山形自動車道「庄内あさひIC」より車で11分

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

書き出しに戻る
Close