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寿安舘(福原舘)跡/後藤寿庵廟堂

慶長・元和年間、伊達政宗の家臣であった後藤寿庵が居を構えた居館跡で、昭和六年(1931)寿庵を顕彰して廟堂が建てられ、近年新たに農村公園として整備された。

寿安舘(福原舘)跡/後藤寿庵廟堂の来歴

後藤寿庵の館跡

江戸時代初期、伊達政宗の家臣であった切支丹領主後藤寿庵が、慶長・元和年間に居を構えた「館跡」がこの地である。

寿庵は、千二百石の領主として、慶長十七年(一六一二)この地に入封した。当時見分の地と称されていたこの地に、東西五町三十間(約六百米)の侍小路をつくり、その両側に屋敷割りをし、その西端にあたる本地に寿庵館を築いた。

館のまわりに外堀を巡らし、保塁、土塀、棚建てなどにより守備を厳重にし、さながら小さい城郭のようであったと伝えられている。

元和九年(一六二三)末、切支丹弾圧により館主寿庵が本館より南部領に転出後、この館の地は一時荒廃したが、享保年(一七一六~一七三五)以降に、寿庵の主家岩渕氏の後裔と伝えられる岩渕氏が、入り口に居を構えて管理に当たっていた。しかし、その岩渕家は今はない。

その後、水沢市当局の配慮や、地元住民の強い願望により館跡の整備がはかられ、農村公園として面目を一新し現在に至っている。

平成十二年四月
後藤寿庵顕彰会

『現地案内板』より

後藤寿庵

後藤寿庵についてはその出生および死所も明らかでなく、今後の研究にまつところが多いが、通説によれば「葛西の臣藤沢の城主岩渕近江守秀信の三男に又五郎があり、五島列島の宇久島に渡って洗礼をうけ「ジョアン」の霊名を授けられ、以後姓を五島(後に後藤と改名)、名を寿庵と称した。伊達政宗の知遇を得て慶長十七年頃三分の地一千二百石を領し、中央に東西五町三十間の小路を設け、西側に従族の屋敷を割りあて、寿庵の館は小路の西側に置き、外堀や堡塁などを築き、また小路には天主堂を設けた」といわれている。

元和元年に胆沢川の上流金入道(若柳)を用水の取水口とし、堰の開さくを始め、幾度も暴風や洪水にあいながらも初心を貫き、砂漠のような胆沢の原野を穀倉と呼ばれる豊かな土地にする基礎を築いた。人々はこれを寿庵(安)堰と呼んでいる。

幕府のキリシタン弾圧が迫るにおよび、政宗の内意を受けた水沢城主石母田大膳は、その夫人ともども寿庵に棄教をすすめたが「政宗公の恩義は千万忝けないが、デウス(神)の恩ははるかに広大であり、御意に従いかねる」といって拒否し、元和九年福原における最後の耶蘇降誕祭を終えて従族十余名を帯同し、家や名誉を捨てて自ら追放という茨の道を選び、南部に逃れたと伝えられている。

寿庵碑は昭和六年に寿庵館跡に建てられ、地主から昭和七年に寿庵堰普通水利組合に寄附され、更に昭和十六年に水沢町に寄附されたものである。

『現地案内板』より

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寿安舘(福原舘)跡/後藤寿庵廟堂へのアクセス

  • 〒023-0885 岩手県奥州市水沢西田
  • JR東北本線「水沢駅(バス停 中央通り二丁目)」よりバスで「福原」下車、徒歩11分
  • 東北自動車道「水沢IC」より車で11分
  • 東北自動車道「奥州スマートIC」より車で4分

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