亀ヶ崎城跡の来歴
亀ヶ崎城(本丸・二の丸)址
現在の酒田東高等学校の所在地は、江戸時代まで亀ヶ崎城であった。文明10年(1478年)武藤氏が築いた東禅寺城が始まりと言われ、城主には武藤一族が配され東禅寺氏を称した。天正16年(1588年)越後上杉勢が庄内に攻め入り、以後上杉氏の家臣が東禅寺城主として酒田を統治した。
慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いで東軍についた山形の最上氏が城を包囲、激戦の末酒田の町は戦火で消失、城主志駄義秀は降伏し庄内は最上氏の領地になった。その2年後酒田浜に巨大な亀が上陸すると最上義光はこれを吉兆と喜び、東禅寺城を亀ヶ崎城と改称させたと言われる。
元和8年(1622年)最上氏が改易された後、譜代大名の酒井忠勝が庄内藩主となり、鶴ヶ岡城を居城としたが亀ヶ崎城も存続を許され、江戸時代を通じて城代を置き支配した。
明治になると一時民政局が置かれ酒田県庁となったが、合併で山形県が成立すると城は解体された。亀ヶ崎城の遺構である長く続く土塁が往時を偲ばせる。
平成20年7月 酒田東高等学校長
『現地案内板』より
【138】白石右衛門宛書状
来章喜悦之至候、仍今月朔日片小ニ」対談之由、可然候、其口無何事候由、尤候、」田ニ新左在留之由、此方へも其聞候、万端」察入候、随而山形・庄内無為成就、然」処ニ東筑企再乱、義興筑前守在所へ」被懸入候由、其聞畢竟自山之表裏迄候、」愚拙無事始而取扱、一年不暮如」此之義、世上覚絶言句候、併何事も〳〵、」可拋不足説ニ候、其口静謐候共、此方へ」近日被登之義、先不可然候、恐々謹言、
(奥上追書)
追面、」如此可取乱庄内、一度」無事ニ取扱候事、」不思義与存候、さても」〳〵、愚拙失面目候事、」難書帋尽候、以上、(天正十五年)拾月五日 政宗(花押)
白右
※東筑(東禅寺筑前守)、義興(武藤義興)
『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』
【1136】今井宗薫兼久宛書状
追而為飛脚申入候、仍」庄内之義、旧冬最」上へ加勢仕候時、庄内」衆も打出候ヲ、やちと」申所ニ庄内城主取籠、命計」之躰ニ而、懇望候而、罷」出候故、庄之城も渡シ候、」然処ニ川北ニ、東禅寺」と申城持あハせ、此中」迄抱候を、近来最ゟ」人衆少々被遣候へハ、不及」合戦明渡シ、庄内」悉澄申之由、一昨日従」山形修理殿、預飛札候、(中略)
(慶長六年)卯月甘一日 政宗(花押)
宗薫老
『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』
人々御中
亀ヶ崎城跡へのアクセス
- 〒998-0842 山形県酒田市亀ケ崎1丁目
- JR羽越本線「酒田駅」より徒歩25分
- 日本海東北自動車道「酒田中央IC」より車で8分