殿入沢跡の来歴
殿入沢跡
殿入沢跡は、戦国時代末期の旧跡である。そのいわれについては、『風土記御用書上』という江戸時代の文書に「葛西家敗軍の砌…又は大崎家敗軍の節、御一家様方御生害」と書かれている。また、「此辺古戦場」とも書かれている。
この地で起きたことについては、天正十八 年(一五九〇年)とも天正十九年(一五九一年)とも言われている。葛西家滅亡時ならば天正十八年八月となり、葛西大崎一揆の後始末としての降参将士処刑事件ならば天正十九年となる。そのどちらであるかは明らかではない。
いずれにしても「此辺古戦場」とあるように、殿入沢跡は天正十八年の合戦を指しての戦場跡、または天正十九年の降参将士処刑事件を指しての「生害」の地と言える。
ここにある碑は、大正三年(一九一四年)大槻文彦博士によって建てられた「先祖殞命碑」である。
平成十二年三月二十五日
河南町教育委員会
『現地案内板』より
宮城県深谷大槻伯馬守供養碑
大槻但馬守平泰常殞命地
陸前桃生郡須江村糠塚殿入沢実為吾家祖但馬守君殞命地君葛西氏支族居西磐井郡金沢村大槻館天正十八年葛西氏為豊臣氏所滅木村吉清来領其封苛政誅求葛西氏遺臣憤怒挙兵逐吉清伊達氏来討勧降抅将領二十余人於此地待命及豊臣秀次東下命斬伊達氏遣兵来臨二十余人奮闘遂為所斬塩淹其首送京師君実在其中時天正十九年八月十四日也年五十五子孫住西磐井中里村存祀文彦至此地歔欷低徊不能去玆建一碑以慰君在天霊今地主桑島氏及亀山氏賛襄之
大正三年甲寅十一月十六日
十世孫文学博士大槻文彦 謹記
『大船渡市史 第3巻 [2] (資料編 2)』
殿入沢跡へのアクセス
- 〒987-1221 宮城県石巻市須江糠塚
- JR石巻線「佳景山駅」より徒歩13分
- 三陸沿岸道路「石巻港IC」より車で10分