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大寺城跡

三蘆城主石川有光が藤田城にいた長子光祐のために築城、光義の代に東福寺を移し、大寺氏を名乗って城名を大寺城に改称したが、清光の代、伊達政宗の来攻で大寺氏は衰亡した。

大寺城跡の来歴

玉川村重要文化財(城跡)指定

大寺城跡(標高四〇五メートル)

大寺城跡は、中世石川氏の拠点的城郭として石川有光が承保元年(一〇七四)に築城した比較的大規模な山城である。当時は土地の名と有光の前居城名をとって藤田鴫城と呼ばれていた。二代光祐と次の光家に至る五〇年間には本丸・二ノ丸・三ノ丸・富士ノ丸などが整えられた。そして文安三年(一四四六)第十三代光義のとき石川町中野から薬師如来・日、月天・十二神将を東福寺境内に移したのにちなんで石ノ里大寺と改め、大寺氏を名乗るようになった。

天正十七年(一五八九)伊達政宗来攻の際には所領争いの確執などから須賀川の二階堂氏と共に敗れ石川昭光の軍門に降ったために大寺城も没収され破壊されたと伝えられている。現在水田として利用されている部分は中世では湿地または河川であった可能性が高く自然の防御線が推定される。

また、安養寺跡・天光寺跡・普門寺跡・東福寺などの寺を城域に含み、頂上には火防神愛宕神社を、また鬼門にあたる東北側には都々別神社がまつられている。字名では久保宿・古宿・南宿・根搦など規模は小さいが惣構え的な構造が推定される。

草枯れの時分に見ると、部・土塁・平場・堀切などが確認され、一部の平場では花崗岩の巨石も露呈しており、周辺に比較的石が集まった地点もあり、庭園の可能性も考えられたが、詳細は不明である。また、本丸下には井戸跡のように清水が湧きでる地点も確認され、標高の高い地区にしては多くの水量が確認される。

この城跡は、周辺居住者の憩いの場として、また公園として年間を通して清掃、草木の手入れ、花木の植栽などが愛好会員によって行われております。さらに散策に、行楽に、また歴史教養にと活用されるなど貴重な城跡であります。

郷社都々古別神社

『現地案内板』より

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三芦城跡(石川城)

大寺城跡へのアクセス

  • 〒963-6302 福島県石川郡玉川村南須釜舘坂
  • 東北自動車道「須賀川IC」より車で23分
  • 東北自動車道「矢吹IC」より車で分
  • あぶくま高原道路「福島空港IC」より車で6分
  • あぶくま高原道路「石川母畑IC」より車で6分

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