大将塚の来歴
大将塚由来
今から凡そ四百十年前の慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦が起こり、その余波戦ともいわれる戦いがここ出羽国上山にも及び、同年九月十七日この地を中心に、徳川方に与した最上軍と豊臣方に与した上杉軍との間で死闘が繰り広げられた。戦いは他に類を見ない程の激戦であったと伝えられ、世に「物見山合戦」と称されている。
上杉勢の米沢城将直江山城守兼続が主力兵約二万を率い、徳川方山形城主最上義光を討つべく、置賜から村山に通ずる狐越街道を進軍、畑谷城を攻め落とし長谷堂城攻略に向かった。
また、上杉別働隊は最上領最南端の抑え上山城攻略のため、最上・上杉領境に築城された中山城の城代横田式部旨俊並びに本村造酒丞親盛を大将とする布陣で進軍した。
迎える上山軍は城主里見越後嫡子民部を大将に、山形城から草刈志摩守の援兵を得て上杉額との境「物見山」麓一帯に、地の利を活かした配兵で要所を固め上杉軍を迎え撃った。
戦はここ「上ノ台」附近が激戦の中心地となり、上杉軍大将本村造酒丞親盛も死闘の末ついに壮烈な戦死を遂げた。この大将の戦死を境に米沢軍劣勢が伝わり、上山軍はその機を逃さず一斉攻撃を仕掛け、上杉軍の敗退となった。
戦いが終わったあと村人達が相計り、荒れた農地を直し塚を築き、碑を建て、大将本村造酒丞親盛の霊を弔い供養して祀ったものである。
両軍の戦死者の霊はここより南へ約一・五キロに位置する「忠川湖(前川ダム)」のほとりに築かれた「首塚」に葬られたという。今その地に碑を建立し祀っている。
平成二十一年三月
上山市教育委員会
『現地案内板』より
大将塚へのアクセス
- 〒999-3234 山形県上山市藤吾
- JR奥羽本線「かみのやま温泉駅」より車で8分
- 東北中央自動車道「かみのやま温泉IC」より車で3分