七曜塚の来歴
天正十六年(1588)大崎合戦の際、泉田重光・長江月鑑斎らが幽閉された蟻ケ袋城から北東1.2kmの地点に七曜塚があります。これは、伊達勢が大崎氏の新沼城、中新田城を攻めた際の戦没者を葬った供養塚で、民家南東丁字路を起点に半径五〇㍍程が遺跡範囲となり、県道157号線沿いに標柱が建てられています。
七曜塚
天正年間、伊達軍が大崎氏の新沼、中新田を攻めた際、伊達軍の戦没者を葬った供養塚である。
『現地標柱』より
七曜塚(三本木町南谷地)
三本木町南谷地区ノ西端ニアリ七ノ小塚アリタルガ現存スルモノ四個是レ大崎義隆征討ノ時ニ戦歿シタル者ヲ埋葬シタル塚ナリト伝フ
『志田郡沿革史』
第八編 史蹟・名勝
14、その他の旧跡
ハ、七曜塚 (南谷地)
南谷地区岡町の西端に七曜塚と呼ばれて来た塚が、鳴瀬川のほとりにあった。この塚は大正九年の大洪水後に行われた鳴面川堤防の改修工事以前までは、七つの小塚の中の四つの塚が残っていたが、今はこの附近一帯は提防の敷地となったので、その塚は跡形もなくなった。
伝える所によればこの七曜塚は、天正年間に伊達の大軍が大
『三本木町史 下巻』
崎義隆の軍を新沼・中新田方面に攻めた際、伊達軍に利がなく苦戦の結果多くの戦歿者を出した。この際三本木方面の戦に戦歿した将兵の屍を葬った供養塚がそれである。七曜は仏教でいう七曜星で、日、月と火、水、木、金、土の五星を指したもので、当時七名の戦歿者の供養塚でもあったのであろうか、この奥床しい七曜星の語をとって呼称した塚名である。
南谷地村
(前略)岡町の西端、鳴瀬川のほとりに七曜塚があった。天正一六年(一五八八)伊達氏は大崎義隆の軍を攻め、伊達軍は苦戦して多くの死者を出した。その際三本木方面の戦で戦死した家臣を葬った供養塚という(三本木町誌)。大正九年(一九二〇)の大洪水後に行われた鳴瀬川堤防の改修工事以前は四つの塚が残っていたが、今は堤防の敷地となって痕跡もない。
『日本歴史地名体系 第4巻 宮城県の地名』
七曜塚へのアクセス
- 〒989-6322 宮城県大崎市三本木南谷地長寿院浦
- 陸羽本線「古川駅」より車で11分
- 東北自動車道「古川IC」より車で13分