舘山城跡の来歴
山形県南東部、米沢盆地の南部に位置し、最上川上流の松川扇状地上に発達した旧城下町、米沢市。市域の北西部、鬼面川東岸平地に旧置賜郡舘山村(現米沢市舘山ほか)があり、小樽川と大樽川が合流する舌状丘陵東端部には、伊達氏時代の要害・舘山御館等に比定される城館跡、舘山城跡があります。
舘山城は、全長三五〇㍍の「要害(舘山城跡)」を中心に、山麓の根小屋(北館・東館跡)を伴った中世城館で、南北に延びる並松土手を東端に城下舘山町(舘山平城跡)が拓け、その一画に輝宗隠居所に相当する「舘山御館」があり、後にこれらを総称して舘山城と呼ばれるようになったと考えられています。
要害に相当する山城は東西三五〇㍍、南北七〇㍍程の規模で、土塁と堀切で隔てられた曲輪が三つ並び、石垣を伴う枡形の配置から、東端の曲輪が最終的な主郭であったと考えられています。西側の堀切には小樽川上流から給水された水路が設置され、地下を通って東先端部の舘山発電所に接続されています。
元亀元年(1570)伊達家臣新田景綱が嫡男の舘山城主新田義直を捕らえ、重臣中野宗時・牧野久仲父子の謀反が明るみになると、宗時らは家々に火を放って居城小松城に退きました。この放火で米沢城下は類焼するも、舘山城と思われる「御城」は「山上」にあったため、被害がなく無事であったと伝わります。
天正十二年(1584)十月、隠居して家督を譲った輝宗は「米沢城邊館山」に「御城」を築いて隠居所とし、鮎貝宗重の城下屋敷で越冬、翌十三年舘山に移住しました。舘山平城の範囲にあたる舘山地区には、輝宗隠居所は現平井医院付近にあったとの伝承や、伊達政宗産湯の池、伊達屋敷などの呼び名が残ります。
天正十五年(1587)正月、政宗は舘山の御地取之絵図を老臣らと検分、翌二月に地割りをして再普請を行いました。同年中は政宗が舘山へ頻繁に行き来し「懸造り」で小十郎ら側近を交えて能や宴会を催しました。同十八年、伊達鉄斎に要害普請を指示、この時に並松土手を含む最大範囲を整備した可能性があります。
慶長三年(1598)上杉景勝が会津に移封、直江兼続が米沢城主となるも、同六年(1601)景勝は家康の命により米沢三〇万石へ減封。主郭西側の枡形虎口周辺から発見された石垣は、その石積技法から景勝の時代に普請されたものと考えられ、何らかの事情で普請は中断となり、未完成のまま破城が行われました。
慶長年間(1598-1615)後半以降、舘山平城の範囲は米沢城下に取り込まれて上杉家臣団の立山屋敷となり、徐々に舘山城の位置や歴史に関する認識が不明瞭となっていきました。正保元年(1644)から製作された米沢城下絵図では「古城」と記されていることから、これ以前には廃城となったと考えられています。
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米沢城跡
舘山城跡へのアクセス
- 〒992-1581 山形県米沢市口田沢
- 米坂線「西米沢駅」より車で7分
- 東北中央自動車道「米沢中央IC」より車で14分
- 舘山発電所付近の「舘山城東館跡」に駐車場あり
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1981)『角川日本地名大辞典6 山形県』角川書店.
- 長井政太郎 編(1990)『日本歴史地名体系6 山形県の地名』平凡社.
- 米沢市史編さん委員会編(1997)『米沢市史 第一巻 原始・古代・中世編』米沢市.
- 米沢市史編さん委員会編(1991)『米沢市史 第二巻 近世編1』米沢市.
- 山形県教育委員会編(1995)『山形県中世城館遺跡調査報告書 第1集(置賜地域)』山形県教育委員会.
- 米沢市教育委員会編(2015)『舘山城跡発掘調査報告書』米沢市教育委員会.
- 米沢市教育委員会 文化課編(2015)『舘山城跡 要害が語る – 伊達氏から上杉氏へ』米沢市教育委員会.
- 舘山城保存会編(2017)『舘山城ハンドブック』舘山城保存会.