大森城跡の来歴
福島県中通り北部、旧信夫郡全域と伊達郡の一部にわたる県庁所在都市、福島市。市域の南東部、福島盆地の南縁に旧信夫郡大森村(現福島市大森)があり、東流する大森川の南岸、旧米沢・会津街道が交差する要地西側の独立丘陵上には、伊達実元・成実父子二代が居城とした城館、大森城があります。
臥牛城、白鳥城とも称される大森城は、標高一四三㍍、比高六〇㍍、東西三〇〇㍍、南北九五〇㍍の城山にあり、城址碑が建つ山頂に主郭、その南北に北館、南館(姫御殿)、東斜面に椿館、その東麓に一の構、二の構が配され、周囲には北・南御手、馬場、土手内、城裏口、家中内、竹ノ内の地名が残ります。
南北朝時代には大鳥城主佐藤庄司基治の後裔信夫十朗盛衡が住したとの伝承が残り、後の天文十一年(1542)頃には伊達氏十四代稙宗により修復築城され、三男実元が大森城主となりました。同十七年まで続く天文の乱が勃発すると、大森城は実元を中心に稙宗方の拠点として機能し、重要な役割を担いました。
天正十三年(1585)実元は大森城を成実に譲って八丁目城に隠居。同年、畠山義継によって輝宗が非業の最期を遂げると、翌十四年、政宗は大森城を拠点に二本松城を攻略、畠山氏を滅ぼしました。大森城主であった成実はその軍功により二本松城を与えられ、代わって片倉小十郎景綱が大森城主となりました。
天正十六年(1588)五月十五日、政宗は田村月斎・橋本刑部顕徳から要請されていた石川弾正討伐のため、米沢城を出陣して同夜大森城に入り、同月二十一日に塩松の築館城に向かいました。翌二十二日から石川弾正を小手森城に攻めるも、連日の雨に祟られたために一旦攻撃を中止、大森城に兵を返しました。
天正十六年(1588)閏五月十二日、この隙を衝いた相馬義胤が三春城への入城を企てたのを機に政宗も出陣。同月十六日の小手森落城以降、数日のうちに相馬方の諸城は落ち、塩松の反伊達勢力は一掃されました。同年九月十七日、田村仕置を終えた政宗は三春城から大森城に兵を引き、翌日米沢に入りました。
天正十七年(1589)四月十六日、岩城常隆が小野方面へ出陣との情報を得た政宗は出陣を決定し、二十三日に大森へ着陣。五月三日に本宮へ陣を移し、安子島・高玉両城を攻略して七日には一旦帰陣。相馬領攻勢のため十八日に金山へ出陣、駒ヶ嶺・蓑頸両城を手に入れ、二十六日に再び大森城へ帰陣しました。
天正十九年(1591)蒲生氏が領主となり、大森城には木村吉清が配されるも杉目城への移転により城は一時廃城。慶長三年(1598)上杉氏が領主となると、大森城代として上杉家臣の栗田国時、のちに芋川氏が四代にわたって在城。寛文四年(1664)信達両郡が幕府領になるに至り、大森城は廃城となりました。
天正十三年五月条
◯九日己卯信夫郡大森城主伊達藤五郎殿成実桧原御陣所ヘ参上セラル
天正十四年九月条
◯十三日乙巳信夫都大森城主伊達藤五郎殿成実数度ノ軍功アルニ因テ采地御加増安達郡二本松城へ所替仰付ラル大森城并ニ須川ノ南成実抱ノ地ヲ片倉小十郎景綱ニ賜フ是亦奉公ノ賞ナリ即チ御判ヲ出サル
天正十六年五月条
◯十五日丁酉天気快晴巳刻石川弾正退治トシテ米沢御出馬竺丸殿見送リトシテ山上ノ原マテ出サセラル(中略)◯入夜大森城御着御日待アリ
◯廿一日癸卯天気快晴大森城ヨリ塩松ノ築舘城ニ御馬ヲ移サル今晩ヨリ一家一族老臣等各円居付ニ野陣アリ
『伊達家治家記録』
関連記事
小手森城跡
国指定史跡 二本松城跡
町指定史跡 三春城跡
大森城跡へのアクセス
- 〒960-1101 福島県福島市大森本丸
- 東北本線「南福島駅」より車で9分
- 東北自動車道「福島西IC」より車で6分
- 大森城山公園内に駐車場あり(駐車場に至る道幅がかなり狭いので要注意)
参考文献
- 福島市史編纂委員会編(1970)『福島市史 第1巻 原始・古代・中世(通史編1)』福島市教育委員会.
- 平井聖・ほか編(1981)『日本城郭体系3 山形・宮城・福島』新人物往来社.
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1981)『角川日本地名大辞典7 福島県』角川書店.
- 福島県教育委員会編(1988)『福島県の中世城館跡』福島県教育委員会.
- 庄司吉之助・小林清治・誉田宏 編(1993)『日本歴史地名体系7 福島県の地名』平凡社.
- 福島市教育委員会編(1995)『福島市埋蔵文化財報告書第78集 大森城跡 大鳥城跡2』福島市教育委員会.
- 高橋貞夫(2013)『信夫の史蹟めぐり』歴史春秋社.