駒ヶ嶺城跡の来歴
福島県浜通り最北端、宮城県境に位置する相馬郡新地町。町域南端、阿武隈高地東側の樹枝状となって延びる丘陵沿いに旧宇多郡駒ヶ嶺村(現新地町駒ヶ嶺)があり、東流する立田川の北岸、比高約五〇㍍の丘陵上には、臥牛城とも称され、伊達氏と相馬氏との「境目の城」であった城館、駒ヶ嶺城があります。
永禄から天正年間(1570年代)小高にいた相馬盛胤により「相馬と新地の繋ぎの城」として築城された駒ヶ嶺城は、東西三〇〇㍍、南北三五〇㍍の規模で、西館・本館・三ノ館からなる主郭の西側に高低差がある二重堀が巡り、各郭間の内堀は土橋で繋がれ、本館の南北端には喰い違い虎口が配されていました。
天正十六年(1588)九月、田村仕置を終え、大森経由で米沢に納馬した政宗は、相馬方面の動静を探らせるなか、相馬義胤から岩城常隆へ「種々計策」が持ちかけられているとの情報を入手。両氏の連携を察知した政宗は、来春の相馬攻めを画策し、金山城の中島宗求に駒ヶ嶺・蓑首両城の状況を探らせました。
天正十七年(1589)四月、政宗は大森城に着陣、五月に安子島・高玉城を攻略すると再び大森に納馬。続いて宇田口への侵入を画策した政宗は、中島宗求に「駒峯・新地両地」への出馬を知らせ、鬼庭綱元には「別而てきい」があるわけではなく、敵方に脅威を与えるのが狙いである旨の書状を書き送りました。
同年五月十八日、大森城を出馬した政宗は、亘理から丸森まで参陣した亘理父子に迎えられて金山城に入り、翌十九日、駒ヶ嶺城への攻撃を開始。水の手で激しい攻防戦が繰り広げられ、亘理重宗が二ノ郭を攻め破るも「実館」ばかりは攻め倦ねていたところ、城主藤崎内蔵允が開城・退却を願い出てきました。
政宗は亘理元宗と中島宗求にその対応を一任し、宗求は人質として単独で駒ヶ嶺に入城。城兵らを残らず引き退かせ、城は開城となりました。一旦金山城に移った政宗は、駒ヶ嶺開城に際して人質になるなどの活躍を示した宗求に対し、恩賞として杉目上下・小川・あふと浜(現新地町)の三ヶ所を与えました。
二十四日晩、駒ヶ嶺へ出向いた政宗は、丸森城主黒木宗元を駒ヶ嶺城に配し、受領名上野守を与えました。その後も領境では戦闘が続き、駒ヶ嶺の城番体制が整えられるも、翌十八年、政宗の小田原出陣直後に相馬方の軍勢が駒ヶ嶺に攻め寄せ、義胤弟の隆胤が討死するなど、相馬方に多くの犠牲者が出ました。
慶長五年(1600)関ヶ原の頃、城番には桜田元親が置かれ、元和元年(1615)新田氏、寛永廿一年(1644)富塚氏と続き、享保三年(1718)からは宮内氏の支配となりました。境目の城として機能してきた駒ヶ嶺城は、幕末、仙台領最南端の前線基地として、新政府軍との激しい攻防戦を迎えることになります。
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新地城跡
町指定史跡 金山城跡
駒ヶ嶺城跡へのアクセス
- 〒979-2611 福島県相馬郡新地町駒ケ嶺舘
- JR常磐線「駒ヶ嶺駅」より徒歩20分
- 常磐自動車道「新地IC」より車で6分
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1981)『角川日本地名大辞典7 福島県』角川書店.
- 庄司吉之助・小林清治・誉田宏編(1993)『日本歴史地名体系7 福島県の地名』平凡社.
- 新地町史編纂委員会編(1982)『新地町史 資料編』新地町教育委員会.
- 新地町史編纂委員会編(1993)『新地町史 自然・民族編』新地町教育委員会.
- 新地町史編纂委員会編(1999)『新地町史 歴史編』新地町教育委員会.
- 南相馬市教育委員会文化財課市史編さん係編(2017)『原町市史 第1巻 通史編1 原始・古代・中世・近世』南相馬市.
- 原町市教育委員会編(2003)『原町市史 第4巻 通史編2 古代・中世』原町市.
- 相馬市史編さん委員会編(2020)『相馬市史 第4巻 資料編1 中世』福島県相馬市.
- 平井聖・ほか編(1981)『日本城郭体系3 山形・宮城・福島』新人物往来社.
- 紫桃正隆(1974)『史料 仙台領内古城館 第四巻 宮城県南部』宝文堂.
- 福島県教育委員会編(1988)『福島県の中世城館跡』福島県教育委員会.
- 福島民報社編(2007)『武者たちの舞台 ふくしま紀行 城と館 下巻』福島民報社.
- 飯村均・室野秀文編(2021)『続・東北の名城を歩く 南東北編 宮城・福島・山形』吉川弘文館.