機織沼の来歴
機織沼と伝説
周囲約八百米、面積四ヘクタールほどの沼であるが、「水深く清くして其の形は、奈良の“猿沢の池”の如し」といわれていた。この沼について登米郡史、町史、村史ほか等に記されているが村人の思いが幾つもの表現で語り継がれている。
弘化年間に書かれた「西郡聞老雑記」には、『内の目湖水城の近くに舟不入沼といっている所は古来より霊沼で人は勿論、舟も入らぬ沼と伝わり、その深み底知れずという。晴天で雲のないときには、弁財天の機織りの音が水底に聞こえたことから“機沼沼”と伝えられ、誠に怪異な沼であったという。
更にこの沼には、大鰻が棲んでいて高橋某があることから鰻を刀で斬り払った。
その翌年に舟に乗っていたとき大波が湧き上がり高橋某の身は沼に沈んだという。
よってその後、弁財天を祭ったところ何の祟りもなくなり漁舟も浮かぶようになった。』(西郡聞老雑記要約)とある。
歴史上では、この沼の西側の小高い丘が湖水城といわれ城主は、西郡新右衛門と古城書上にある。
葛西氏の臣新右衛門(錦織では、新左衛門とよばれている)は、天正十八年(一五九〇)葛西氏の将として石巻市河南の須江に、出陣し翌年深谷の役で伊達氏軍と戦い討死したといわれている。
このことを受けてなのか、城主討死の訃報を受けた城主夫人は、沼に投身し夫を追ったという伝えもある。
現在、沼の東の丘を弁天山と呼び弁財天の祠がある。夫人の冥福を祈願したものという。その祠の傍には、山本宮城県知事の揮毫による新左衛門夫妻の碑が建立されている。
城主新右衛門の墓は、河南須江字細田の軍陣橋に隣接する高橋家屋敷内に供養碑としてあり高橋家が氏神として今も守り伝えている。
平成二十五年三月
錦織地域振興会
風土記御用書出
登米郡西郡村風土記御用書上
西郡村
一沼 壱ツ
『宮城県史 第26(資料篇 第4)』
門ノ目と申所
一不入舟沼 但沼之廻リ九百六拾五間沼之由来相知不申候
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殿入沢跡
機織沼公園へのアクセス
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