愛宕神社/数壇山の来歴
愛宕神社
[所在地]登米町 針田
[創 建]元亀年間(一五七〇~一五七三)
葛西晴信勧請(葛西氏十七代)
[祭 神]火産霊命(火之迦具土神)
[祭 日]陰暦 四月二十四日・九月二十四日
[由 緒]本社は、もと東針田現在の三峯社地に愛宕神社は今から四百四十四年前の元亀二年(一五七一)頃に、葛西十七代晴信公が東針田の山腹に勧請しましたが、十八年後の天正十七年(一五八九)豊臣秀吉による小田原への参陣命令に従わなかった葛西氏は滅ぼされます。
よって寺池城下一帯は無人状態となって荒廃し、愛宕神社も朽ち果てておりました。
十五年後の慶長九年(一六〇四)今から四百十一年前、荒れ果てた地に登米伊達氏初代直宗公が水沢より移封となり、地域氏子により再興。
明治十三年(今から一三五年前)現在地、西針田子持杉の上、数壇山の景勝地に遷宮し明治十六年旧四月、京都嵯峨の愛客本宮から分霊を勧請しています。その後、大正九年四月十二日山火事により焼失し地区氏子の絶大な賛助により再建。同十年旧四月落成となり昭和四十五年屋根を赤瓦葺きとし、昭和六十年には社務所の新菜が行なわれました。
子持杉(子持杉観音)と数壇山の由来
数壇山の麓に、元文五年(一七四〇)に植えられたと伝えられる杉の大木が並んでいます。
一本の親杉の枝葉が繁茂し植元より西方向へ一列に十二本生えていました。
しかし現在は六本となり生息しています。このような事から「子持杉」と呼ばれるようになったと伝えられています。
子持杉の傍に二尺四方(六十センチ)のお堂があり「子特杉観音」として祭られ、子宝に恵まれない人達は、この「子持杉観音」に願をかければ、成就すると言われ厚く信仰されてきました。
観音堂も平成二十五年東西針田総代並びに氏子より多大なる浄財を賜り、大修復を行ない、同年十月落成となりました。
又、数壇山は天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の奥州仕置きによる葛西一族滅亡時の首級(死骸)及び兵具類を山の上に埋め、数多くの塚を築いたのでこれを数壇と言います。
昭和三十年代頃まで、数カ所の塚(土盛り)が確認されており、畑や林などから矢じりや錆びた刀等が沢山出てきたと言われております。
平成二十六年十二月 針田愛宕神社総代
『現地案内板』より
登米郡史
第七章 登米町
六、神社
【無格社愛神社】登米町大字小島字針田に鍵座す。祭神火産霊命、祭日三月、九月二十四日、境内千百十坪、信徒三百人。
葛西晴信の勧請にして別当は日向山南光院と称す。天正の乱に社殿兵燹に羅り荒廃したるたを伊達宗直の時士民之を再興し、維新後明治十三年子持山上に社殿を移し、大正九年四月十二日山火事の為めに烏有に帰し、十年地方有志の寄附金により再建し、一月十五日遷宮式を行ふ。社内松杉繁茂し、前は長橋沼を俯臨し、遠く木吉郡界の山脈を望み眺望に富む(子持杉の名蹟あり、別頁に出つ)。神職は葛西氏以来南光院と称し、明治三年復飾神官となり、田村清と改称し、十四年社掌に任し、九十六歳にして死亡し、後任繁人社掌となり、現職にあり。
八、名勝旧蹟
【七梯念彿壇】寺池にあり。伝に日く。
葛西氏の滅亡後大崎十二郡の大守となりし、木村伊勢守は元来小身者にして、大谷吉隆の小性なりしが、俄に大国の守となりしに依て浪人成上りの者を重役に取立て執政せしめし為、政事頗私多く、賄賂を貪り、過役を云付け百姓を苦しめたり。左なきだに旧恩を慕ひ居る百姓共の、事あれかしと待ち設けたる事故、所在に隠れ潜み時節を計りし葛西の残党、大崎の痕人と諜し合せ、旧領の百姓を煽動し村に一時に一揆を起し、不意に登米城に押寄せ、弓織砲を撃懸けければ、城中は鼎の沸くが如く狼狽し、一支も支え得ずして上方指して逃げ登りたり。逆徒等は勝鬨を揚げ、登米の城に楯籠り逆威を逞うす。依之仙台黄門政宗公は大谷(吉隆)の御代官として出馬せられ、寺池村保呂和舘に御旗を建てられしかば、一揆輩は御旗風に恐怖し、避易して登米の町々屋敷〳〵に火を放ち、一人も残らず落行くを仙台勢遁さず追懸追詰め討取りたる首を今の吉田街道に晒し、首実験を行はれける。其形容梯掛けの如し、故に此辺を長梯と言ひ習はせしが、後世長橋と云ふ地名となりしと云ふ。又死骸と兵具類を山の上に埋め、数多の塚を築きたり。今数壇と云ふは是なり。然るに村内種々の怪異現れ、疾病頻りに流行して止むことなし。是偏に葛西の怨念の為す業なりとて、黒人打集り寺池には定念佛堂を建て、念佛修行の僧に其供養を為さしむ。今の念佛壇は其跡なり。(編者曰、佐沼城の事実を誤り伝へしならんか)
九、口碑伝説
【子持杉】抑、子持杉の由来をたづゆるに登米の郡の小島の村針田が里に数壇と云ふ山あり、麓に数多の供養塔を建立 し其の傍に大木の杉あり、元文五年郷人の植る所なりしが、一本の親杉枝葉繁茂して、根元より西方へ一列十二本の子杉を生じたり、誠に稀代の神木なり故に誰云ふとなく、子持松と称し、村中は勿論遠近の男女子無き者は一度誓願を掛る時は成就せずと云ふことなし。其の利益顕著なり。然るに此度仙府商人其夫婦此処を通り子持杉を詠じて「珍らしや草木心なしと雖も斯まで世継の子を生ぜしこそ不思議なれ、汝心あらば我にも一子を授けよ」、と夫婦一心に祈誓し、其の夜は登米町菅野と云ふ旅舎に止宿し、旅路の労を休めしが、眠りもやらず夜も早や三更の頃、子持杉観音、杉の枝に立たせ給ひ「汝子なきを愁ひて誓ひを建つること一心の誠により一子を与ふるなり」と告げ給ふと覚えて夢覚めたり。夫婦は奇異の思ひをなし宅に帰りしに猶も信心怠りなく、其の月より懐妊し、玉の如き一子を安産せしかば、夫婦の喜び限りなし。是偏に信心の徳なれば、諸人尊び敬はざるべけんや云々と旧記に見ゆ。
『登米郡史 下巻』
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寺池館跡
市指定史跡 首壇
愛宕神社/数壇山へのアクセス
- 〒987-0701 宮城県登米市登米町小島西針田67
- JR気仙沼線「陸前豊里駅」よりタクシーで11分
- 三陸沿岸道路「桃生津山IC」より車で16分