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谷地城跡/三社宮

中条氏の創建、天正十年(1582)頃までに白鳥長久によって拡張され、同十二年に白鳥氏を討った最上義光の支配となるも、慶長出羽合戦では上杉軍が占領、籠城戦が繰り広げられた。

谷地城跡/三社宮の来歴

河北町指定史跡 谷地城本丸跡(三社宮と土塁)

この地は、旧谷地城の本丸の北東、すなわち鬼門に当たる所から、場内への災難除けとして、三社宮観世音堂が祀られました。三社宮がある一段高い場所は、本丸の土塁跡であり、当時は高さ3~4メートルあったと推定されます。その外周には堀が巡らされ、堀幅も30~50メートルと推測されます。

本丸の規模は、「工藤弥次右衛門手控」によると内楯地区を中心に南北2町12間(約240メートル)、東西1町(約120メートル)であり、その北側に城主の屋形や役所倉車が建っていたと推測されます。谷地城は弘治年間(1555~1558)頃に中条氏によって創建され、その後、村山市白鳥から谷地郷に進出した白島十郎長久が天正10年(1582)頃までに拡張整備したと考えられます。

天正12年(1584)6月7日、自島十郎以下主だった家臣が山形城内で最上義光に誅殺されると谷地城は直ちに攻め込まれ、3日間の攻防戦の後に落城します。その後は、山形・最上氏の支城として存続します。慶長5年(1600)10月の「出出合戦」では、2500名にのぼる上杉・庄内勢が占領すると、最上軍との籠城戦を引き起こし、元和元年(1615)頃には廃城となりました。

三社宮前の大銀杏は、慶応2年(1866)4月の谷地大火によって3日間くすぶったと伝えられます。地際より芽吹いたものが現在に至り、近年まで「乳いちょう」とも呼ばれ、母乳の出を願う多くの参詣者がありました。また、拝殿前の赤石(鎌倉石)は、屋形で愛好された庭石と伝えられます。

三社宮周辺および土塁は、谷地域本丸の面影を最もよく伝える場所として平成29年に河北町指定史跡に指定されています。

河北町

『現地案内板』より

谷地城跡/三社宮へのアクセス

  • 〒999-3511 山形県西村山郡河北町谷地己
  • JR東日本「さくらんぼ東根駅」よりバスで「役場」下車、徒歩3分
  • 東北中央自動車道「東根北IC」より車で6分
  • 東北中央自動車道「東根IC」より車で8分

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