梁川城跡の来歴
福島県指定史跡及び名勝
梁川城跡及び庭園
昭和五十七年三月三十日指定
所在地 伊達郡梁川町字鶴ヶ岡・字桜岳地内
所有者 梁川町ほか梁川城は、伊達氏によって、鎌倉時代に築城されたとみられる。城跡からは十三世紀後半よりの遺物が出土しており、十四世紀末に活躍した大膳大夫政宗のころには、本城として使用されていた可能性がある。以後伊達氏は室町幕府との関係を深めつつ、持宗・成宗と勢力を拡大、大永三年(一五二三)伊達稙宗が陸奥国守護に補任されるに及んで、梁川城は奥州の政治的中枢を占めるにいたった。天文元年(一五三ニ)植宗が本拠を桑折西山に移してからは、伊達領国の重要な支城となり、天正十八年(一五九〇)蒲生氏の支城、慶長三年(一五九八)上杉氏の支城となった。そののち寛文四年(一六六四)廃城とされたが、文化四年(一八〇七)から文政四年(一八二一)の間は松前章広の本拠地となった。
明治三十二年に深川小学校が本丸跡に移転し、第二次大戦以後は二の丸の地に中学校・高等学校などが建設され、城跡の景観は変えられたが、なお本丸跡土塁・同庭園・桜館跡(新公園)・三の丸跡などに往時の梁川城の姿が残されている。
これまでの発掘調査によると、本丸跡からは、主殿など数期にわたる二十五棟以上の中世建物跡・堀・井戸・石敷などの遺構、及び陶磁器片・中国銭などの出土品が発見され、伊達氏以来の居館の存在が確認された。庭園も伊達氏居城の時代にまでさかのぼることが推定され、現存する城郭本丸の庭園の全国稀有の例として極めて貴重である。
三の丸は、上杉期の慶長四年(一五九九)ごろまでに整備を終えたものと推定され、当時は侍屋敷がおかれた。現在土塁・堀などが残り、梁川城の現存する重要な部分である。
福島県教育委員会
『現地案内板』より
梁川城跡へのアクセス
- 〒960-0600 福島県伊達市梁川町鶴ケ岡
- 阿武隈急行「希望の森公園駅」より徒歩5分
- 東北自動車道「国見IC」より車で20分