月夜畑古戦場の来歴
奥相茶話記
月夜畠夜討事
政宗白石福島を攻給て後相馬の一族家臣等盛胤義胤へ申上るは大形家康公天下を掌握し給べし其上景勝も無か如くに成玉ふ而るに御味方申験なくては如何今更政宗と一和したりとも可攻処もなし又相馬一分にて攻可小城もなし扨後日に家康公より御答めあらば其時何とか御受し玉ふべきと密談申上る両将も如何有べしと御分別に不能所也時の宿老にて水谷式部申は景勝の領へ夜討すべし乍去此方の者計にては後證になり難し伊達領の者を語引加度存ず此義は兵庫巧玉へかしと申けるは心得侍るとて巧けるは草野に夜盗頭に赤石沢喜七郎山椒彦七郎段々勘ヶ由足股彦右衛門草野将監とて夜討強盗を所作となす名誉の者共也彼等を呼で申ば仙道の内月夜畠に大富貴の者有此乱世幸なれば夜討して取れ迚も大き成事をせよ相馬三郎は事に馴たる者を誘へ亦伊達領にも悪党如何程も有と聞及是等をも語ひ誘来れと申付る右の者共小斎丸森角田柴田苅田名取亘理深谷葛西の悪党どもを語ひしに伊具郡小斎猫の入勘ヶ由青葉左衛門四郎を始として四百余人相馬領には草野大原山中所々在々迄密に語り付しかば二百人計扨公儀よりは北郷衆の内渡辺八郎衛門大原に本田文右衛門と申侍二人付らる此二人に計夜討企の仔細具に兵庫申開せ伊達の者をば皆も討せよ相馬の者をば討せぬ様に下知して引除如何に見苦敷逃ても討せぬが肝要ぞと云含らる慶長六年正月四日の夜なり今夜は四箇の悪日なりと申者有しかとも是程の大勢にて日の吉凶は入まじきぞとて参けり月夜畠近くなりて去は人数をしらべ打入の次第を定めよとて草を取てしらべけるに惣勢七百人と二度迄取たるに如此なら是は一人草の葉を一葉宛持来るを集てしらぶるを手草と云木戸を開き戸を明るを夜盗第一の高名とする也伊達の者ども木戸を開かんと云相馬大原の者ども開んと暫く問答して大原の者ども開くに定まりぬ夜討の企右二人の侍計知て其外には誰も知ず故に如此問答せし也亦飯樋の惣左衛門と申者の父を月夜畠に置たれば是を人質にする間月夜畠へ討まじくやがて近ければ田向村へ討んと云月夜畠にては人質有は油断したり而るに月夜畠の者ども人質はあり心易げに木戸の傍へ出たるを此方より鉄砲にて打倒す扨はだしぬきにするぞとて惣左衛門が父を引張切にして足手を切放し是見よとて投出す是を見て大原の者どもは勿論木戸を開る役者也夜は明たりすは木戸を破て押込とて込入しかば内にても内々心掛てや有けん防く程に大原の者ども多く討せたり扨味方大勢なれば月夜畠の者共をば安く討たれとも元来乱取にすべき物もなければ無力引退けるが道にかふめきとて大ぬかりの江堀有討一つを渡して往行する外に道なき所也然に近き村の者大畑次兵衛と云者聞くと等ぐ鷺の着物にて百余人にて打て出で江堀の前に遮て待掛たり六畑村と月夜畠の間半里計となり味方除兼彼方此方とする所に石川弾正其比は景勝没落し玉へば隠れて百目木にありしが眼辺にて狼藉はさす間敷とて乗出し二百人計にて跡より追詰しかば前後の敵も押乱され江堀へ飛込て多く計れ鳬百日木より月夜畠へ一里大畠へ半里計也相馬の者討れしは草野に将監藤八郎与六郎一條の坊子孫介八郎兵衛清吉平次郎弥市郎〔下ノ者ノ一人〕藤十郎九郎兵衛是は江垂村より来る半介段々勘ヶ由助七郎弥半左衛門同弟定太郎飯樋にて佐藤和泉小六郎新六郎佐藤々八郎八郎兵衛同弟金蔵高倉文五郎五郎兵衛同子専松高橋金九郎手負しを従者に弥七肩に引掛て除しを敵追来る手負も弱けるにや主の首を落し鼻をかき道脇の雪中へ押込主の鑓を取小膝をつき敵を突払しが大勢なれば終に討れけり関沢に平九郎佐藤七郎三郎右衛門此外に有り亦川股浪人も有大原にて星藤七郎縫殿之介七郎兵衛同子八郎本田文右衛門父子大倉に新二郎〔下人一人〕帯刀都合相馬の者百五十余人伊達の者二百五十余人討れたり夜討の一段は水谷式部日来案深き者成故に後難を考て如此夜討して討死の者名字無きには名字を付て帳に作りて注しけり此後式部も病死なり相馬得替の時も此條をも本田佐渡守正信へ相達しけり此も訴訟の便りとなれりとぞ同六年三月四日盛胤の妾腹相馬次郎郷胤死去也北郷の字蒲生飛弾守氏郷より受用せらる道号陽山清公と申北郷鹿島の陽山寺此菩提寺に始て造建也導意林堂也同四月利胤公の御妻御死去也道号慈明院殿花桂春光と申是也会津盛隆の御娘也十七歳にて牛越城にて御死去也導師意林東堂同十月十六日盛胤中村城に於て御逝去也御行年七十三歳道号は籌山勝公と申中村の城下真光寺に墳墓今に有は是地導師は同慶寺現住意林東堂也茶話に曰政宗白石を攻落し玉ひし後水谷式部を初め各申は末には家康公天下を掌握成さるべし而るに相馬味方申の験は一事も侍らず責ては政宗へ内通無ては末の御為悪かるべしとて義胤へ各右の條を申上る義胤被仰は家康公へ味方の験なし迚申分立ずば家を滅すべき也政宗に内通し下知を請んことは思も寄らず此事重て不可申出と御気色替て仰切られしかば亦各談合して去ば利胤は若年にて御座せば政宗へ内通在ても苦しからずとて此條義胤へ申上ければ夫は若き者どもなれば兎も角も各計ひに可任吾に於ては仮家康公より仰付らるとも訴訟申上政宗が下知には不可随自分に応じて一族の働すべしと也去ばとて利胤より政宗へ御通られたり福島を被攻し時抔取通し給ふ書札今に有而れども得替の時は是も用に立ざりしと申侍る又右に申石川弾正は仙道の内月山百目木を政宗に被攻取城を開除て後相馬へ来り暫住せしが長尾景勝乱出来る時会津へ参御扶持を申受諸浪人百甘騎の士将たりしが景勝没落し玉し後又流浪せり其比景勝家中にて頭立し者をば悪み給由中にも浪人は家康公殊更に悪み給と申唱しかば普代の者共家抱申百目木に忍て有し也勿論大畑田向月夜畠何も普代の親愛の百姓共なれば月夜畠夜討の時も何れも供し出合たり弾正は此所にて終に病死なり
『岩磐史料叢書 上巻』
相生集
古蹟類
月夜畑柵
菊地四郎左衛門〔始め彦次郎と称す八代〕武安住す〔家系〕◯按するに慶長六年正月四日の夜相馬義胤の宿老水谷式部といふもの景勝領へ夜討すへして草のゝ夜盗頭赤石沢喜七郎なんといふものを欺き仙道の内月夜畑に大富貴のものあり此乱世幸なれハ夜討してとれ迚も大きなる事をセよとかたらひて襲ひ討たる事道斎記にミへたり里老伝にハ義胤より田向の舘を夜討セし時比道筋を通りしに後陣につゝく寄手を月夜畑のもの見付てをめ〳〵とハ通すましとて鉄砲を打かける故田向と両所にて戦けるに味方ハ大木を楯としたる故敵の矢玉ハあたらす今に至ても大木の内にハ玉ともあるへしといふよし舘基考にミゆいつれ是なるへき
『相生集 上』
月夜畑古戦場へのアクセス
- 〒964-0201 福島県二本松市戸沢月夜畑
- JR東北本線「安達駅」より車で23分
- 東北自動車道「二本松IC」より車で27分