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八幡山 正西寺/香積山 華光院跡/標葉氏墓所

慶長五年(1600)政宗が上杉景勝を討つため大坂からの帰途に宿泊した華光院の跡地で、明治初年(1868)正西寺の寺地となり、境内には標葉氏の墓所がある。

八幡山 正西寺の来歴

奥相志

川添村 僧院

香積山華光院 大坂に在り、曹洞宗豊池山円応寺の末寺、

原、天台宗にして標葉氏の香火院なり、中興開山円応三世大準愛的和尚、白山宮観音堂寺域に在り、寺田七石七斗、門下に寺農戸一有り〈寺伝記に載する所、寛文中七石六斗七升一合五勺、貞享三丙午年七石六斗七升一合五勺(権現堂・新田両邑の中)、延享四丁卵年九石一斗五升、宝暦中七石七斗、文政中九石余〉、当山嘉吉二壬戌年以来開基大檀那標葉郡主左京兆清隆〈後得台入道と号す〉、寺田七貫文余を寄附す、清隆嫡子左馬助隆成と号す、明応元壬子年十二月清隆・隆成父子自尽す、位牌有り、法諱清台院殿天鏡宗得大居士〈明応元年十二月十五日清隆〉、寒松院殿雪庭宗白大居士〈右同日隆成〉、按ずるに、昔当院火災古記焼失せり、右法名は後人の諡する所か、明応の頃は国郡の主と雖も院居士を称する者無し〈嘉永五壬子年三月十七日山田鉄三郎紀元、清隆・隆成父子並びに山田氏の祖和泉光秀の石碑を花光院に建立す、標葉氏の石塔は長さ三尺余、山田の祖は見阿院和泉光秀能継居士の号を諡す、永正十一年三月十七日〉、古昔の本尊、開基清隆の守仏伽羅像観音、徳一大師作を寺域の堂に安んず〈前に見ゆ〉、当山前住の牌有り、開山維山良和尚、二世準山的和尚、三世大通徹和尚、四世牧山等育に至るまで天台宗なり、牧山の世、天正二甲戌年春火災伽藍・法脈大檀那木主・過去牒等咸焼亡す、此の時まで本条に在り〈今旧跡有り〉、失火の時洪鐘を水田に投ず、深田の底に沈没すと云ふ、此れより寺地を凉ヶ森に徒し法流を改め行方郡小谷邑円応寺三世大準慶的和尚に請ひ開山と為す〈牧山等育を以て中興二世と称す、牧山俗姓は磯部の堡主佐態伊勢の四男文五郎が一子なり、或は云ふ当山五世林山天廊、佐藤好信五男磯部文五郎信重の二男なりと〉、標葉氏泯後岡田氏権現堂の堡に居り与三右衛門胤政に至るまで四世当寺の大壇越と為る、岡田氏の後孫中村に住む、今に旦那なり、寺の後南に石櫃有り、是れ清隆の死骸を葬る所と之を伝ふ、末寺天台宗天千山常照寺藤橋邑に在り、開山は花光院三世大通徹、二世日顔朔、当寺も亦天文中宗を改む、

慶長五年夏伊達政宗当院に寓す、今年石田三成竊に秀吉恩顧の諸将を誘ひ徳川家康公を討ち秀吉の高恩に報いんと軍旅を回す、家康公未だ之を察せず、上杉景勝自国に在り謀叛と称するを以て故に征伐の為めに師を帥ゑ会津に発向す、時に伊達政宗急ぎ帰国して信夫ロより攻め入るべしとの命を奉じ大坂を発し夜を以て日に継ぎ馳せ下る、仙道白河より白石に至るは敵国にして道塞る、常陸より岩城を経、将に相馬に到らんとす、然るに相馬は敵にして恙無く通ること諧はず、猶予して岩城の界より使者小高に来り政宗の言を演じて曰く、今回徳川公上杉を征伐す、因って政宗後門に向ふべき命を奉じて下向す、道既に塞がり東路に随って漸く此の境に至る、急ぎ道路を馳せ士卒悉く労す、願はくは旅舘を貴邦に乞ひ人馬を休めんと、相馬の勲臣之を聞き政宗封内に来るは籠鳥の如し、是れ天与の幸なり、夜戦して政宗を討たんと議す、就中、岡田兵庫胤景自ら将と為り敵を塵する術計を演ず、時に水谷式部胤重〈時の老臣〉謂ひて曰く、政宗を討たんこと安しと雖も窮鳥懐に入れば則ち猟者も之を殺さず、今行道塞がり僅かの兵を率ゐ敵地に頼り来る、謀りて之を討つは勇者の本意に非ず、且つ景勝大軍を従へ敵を嶮地に受く、属将力を勠せ戦はば則ち勝利有るべきか、然れども家康公は武名高く天下第一の老功、誰か之に比する大将有らんや、其の属将政宗を討ち若し景勝利を失ひ家康運を開かば則ち当家忽ち滅びん、遠き慮無くんば則ち必ず後の憂あり、唯〻同じくは我が備を全うし彼に代り夜を守り本国に帰して他日戦に臨み両家天運に任せ雌雄を決せんに如かずと、君侯及び諸臣咸比の議に同ず、是に於て涼ヶ森華光院を以て旅舘と為し寺庭に兵糧二百苞、大豆百苞、魚塩々噌等を積み置く、政宗四百余騎の兵を率ゐ到着して宿す、山上山下を堅固す、新舘彦左衛門使价して君言を申し右の兵糧を贈る、政宗義胤公の厚情を謝し糧の備有りと謂ひて之を受けず、且つ岡田与三右衛門寺に在り響応の事を勤む、半夜に迨び寺境に逸馬有り、人騒ぐ、四方を守る警護の者夜戦と疑ひ恐愕す、山上山下悤憧山より堕ち田中に馳せ入る、上下大いに混乱す、与三右衛門庫裡に居る、急ぎ庭に出づ、政宗薙刀を杖つき侍臣を従へ縁に出で相馬侯の人有るかと呼ぶ、与三右衛門之に応じ縁際に進む、政宗曰く、物音高きは何ぞや、予が雑人狼藉有らば足下之を鎮むべしと、与三右衛門答へて日く、放馬の噪ぎなり、些も心を費すなかれと、然して与三右衛門を居所に召し馳走丁寧なりと謂ひ杯酒を賜ふ、共の後暫くして庭前に虎落を結ひ掛け置きし所の鎗百本余一時に倒る、其の音を聞き再び驚き騒ぎ動揺す、此の時亦政宗侍士五六人を従へ縁に出づ、与三右衛門前の如く縁際に参り警護の槍倒ると申す、政宗曰く、諸事の用心神妙なりと、近く召して自筆の証書を賜ふ、実は与三右衛門馬三疋を放ち槍を倒し劫かして彼を試せしなりと云ふ、翌早旅舘を発す、新舘彦左衛門路を引き北堺に送る、政宗之を謝し佩ぶる所の中刀を賜ふと云ふ、

『相馬市史4 資料編1(奥相志)』

貞山公治家記録

慶長五年(1600)六月・七月条

〇六月癸未小八日庚辰 公近日御国へ御下向ニ就テ御道中ノ御法度今日仰出サル今度御帰国ノ事是ヨリ前会津中納言景勝卿上洛延引ニ就テ大神君ヨリ御使者ヲ以テ景勝事 秀頼公ヲ守護セス引籠ル義 故太閤ノ御遺言ヲ背キ然ルへカラス早々可罷登ノ旨仰遣サル処ニ 太閤御在世ノ時五三年ノ暇ヲ賜テ在国スルノ由返答ニ因テ此義 大神君ヨリ加賀大納言利家卿安芸中納言輝元卿備前中納言秀家卿ニ尋問ヒ給フ処ニ各其義不承由ヲ挨拶セラル重テ景勝卿へ右ノ趣仰下サルトイヘトモ罷登間敷由ニ就テ景勝卿謀叛ニ治定ス御退治トシテ 大神君奥州会津ヘ進発シ給フヘキ旨仰出サル因テ常陸侍従義宜朝臣最上出羽守殿義光南部信濃守殿利直各国々ニ相下サル 公モ御先キニ帰国シ玉フヘキ旨仰付ラル此故ニ早速御帰国ノ御催アリ右御道中御法度書左ニ載ス

  法度

一押買狼藉仕間敷事
一大酒タヘ間敷事
一所々之者ニ対シ慮外仕間敷事
一其身々々之持道具少モ損サシ申間敷事
一宿々ニ於テ火出シ申間敷事

  慶長五年六月八日 御黒印

◯十四日丙戌 公御帰国トシテ大坂御発駕伏見御屋形ヘ御立寄リ御寓

◯十五日丁亥伏見御逗留

◯十六日戌子伏見御発駕

◯七月甲申大十二日癸丑 公名取郡北目城ニ御着伏見ヨリ中山道ヲ経テ御下向ナリ御国ヘノ本道ハ景勝ノ領地ヲ歴ルニ依テ遠慮シ給ヒ上野国高崎ヨリ下野常陸ニ御出磐城相馬ヲ経給フ相馬長門守殿義胤ハ 当家ト御親族ナリ然レトモ比年旧怨アルヲ以テ義胤気遣セラルニヤ城下ヲ通リ玉ハサル様ニ新道ヲ開テ 公ラ通ラシメ玉フ時ニ御迎ヒトシテ岩出山城御留守居屋代勘解由兵衛景頼御人数許多ヲ引具シ相馬境マテ出迎ヒ御供シ奉ル今日北目御着ナリ景勝領地へ御働キノタメ直ニ北目ニ御在陣ナリ

『伊達家治家記録 第1』

【1052】道中法度黒印状

一御道中御法度書写

    法度

 一おしかひ・らうせきつかまつるましき事、
 一大さけたべましき事、
 一ところのものにたひし、りよくわいつかまつるましき事、
 一その身〳〵のもち道具、すこしもそんさし申ましき事、
 一やと〳〵におゐて、火出し申ましき事、

 慶長五年
    六月八日  貞山様御黒印(丸御黒印ニて、白字之文字よめかね申候)
 右、山家喜兵衛所持、誤記録ヘ写載之、

『仙台市史 資料編11 伊達政宗文書2』

八幡山 正西寺へのアクセス

  • 〒979-1531 福島県双葉郡浪江町川添南大坂15
  • JR常磐線「浪江駅」より徒歩12分
  • 常磐自動車道「浪江IC」より車で7分

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