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下野郷館跡

下野郷村のうち矢野目に位置する中世から近世の城館・屋敷跡で、大坂の陣後に隠居した伊具小斎城主佐藤勝信とその跡を継いだ奥山氏の知行地であったが、のち矢ノ目足軽が居住した。

下野郷館跡の来歴

下野郷館跡

五間堀川左岸の自然堤防上や砂洲・砂丘に立地。県道改良工事に伴い、平成十二年~十五年にかけて発掘調査を実施し、中世~近世にかけての遺物と、掘立柱建物跡、井戸跡、区画溝などの遺構が発見されている。

『現地標柱』より

矢野目足軽城跡

その昔この地に館があった。館の敷地は広大にして内側と外側とに分かれ、館内、館外と称した。

矢野目足軽は伊達家六十二萬石直属の足軽であった。言伝えによれば、当足軽は仙台藩祖伊達政宗公が天正十九年(一五九一)豊臣秀吉公から米沢より岩手沢(現岩出山)に所替えを命ぜられ、その際政宗公の従者として米沢の矢野目(米沢市窪田)より移住し、さらに慶長六年(一六〇一)仙台に移住した際、この地に居を構えた鉄砲足軽であった。この地は、仙台藩家臣奥山与市左衛門の知行地となり、矢野目足軽は奥山家の支配を受けそれぞれ扶持を与えられていた。

矢野目足軽は当初二百三十人で組織されたが、享保七年(一七二ニ)に五十人が分離させられ、伊達織部(柴田郡川崎)に三十人、黒沢要人(桃生郡寺崎)に二十人が預足軽として移された。

爾来百八十人の足軽を十八人一組として十組の大番隊に属させ、一番方から十番方に分け各番方に番頭を置き、その上の大番頭が全体を統率した。

矢野目足軽がこの地に置かれたのは、足軽とはいえ伊達家直参として政宗公の信望厚く海防の任に当たるという重要な役割を命ぜられたからで、特にこの地は南の阿武隈川、北の名取川の中間に位置し、さらに伽井港(赤井江)から外洋に通じるという要害の地でもあったからである。海洋に面する集落で長谷釜、相野釜、北釜には兵站の炊飯所が設けられ、二野倉には倉庫が設けられたことから「釜」と「倉」がついたといわれている。

米沢から岩出山そして仙台と三百有余年にわたり伊達家に仕えた矢野目足軽も、幕藩体制から新政府樹立という時代の趨勢により、明治二年(一八六九)十月永の暇を賜わり華族となり、翌明治三年帰農を命ぜられ、百八十人の足軽のうち他に移住する者もあり、明治五年には百五十六人となった。

矢野目の町割は一番方から十番方まで大番隊の隊号を今なお地名に留めており、またこの町割を囲む城郭を現わす城壁や外堀の形跡が明確に古えの面影を残しており、往時を偲ぶことができる。

維時 昭和六十二年十月二十日 撰文 無着考雲
謹書 芳賀明水

寄贈 三村吉郎 建立

『現地標柱』より

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下野郷館跡へのアクセス

  • 〒989-2421 宮城県岩沼市下野郷舘外
  • JR東北本線「館腰駅」よりバスで「北谷地」下車、徒歩9分
  • 東北自動車道「仙台空港IC」より車で4分

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