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矢ノ目館跡/伊達政宗初陣の地

初陣となる相馬氏との戦いで、政宗の拠点となった複郭式の平城。

矢ノ目館跡の来歴

宮城県最南端、戦国末期伊達と相馬の係争の地であった伊具郡丸森町。阿武隈川が大きく迂曲しながら北流する右岸一帯に旧小斎村(現丸森町小斎)があり、その北西、阿武隈川に近い矢野目と呼ばれる一帯に、天正年間築城され、政宗の対相馬戦の拠点となったと伝わる矢ノ目館跡があります。

天正四年(1576)伊達晴宗・輝宗父子が「矢野目」に陣取ったとされ、同十年(1582)には輝宗・政宗父子が「小斎ノ内矢目」に陣を進め、相馬義胤と対峙したと伝えられます。矢ノ目館跡は、二重に堀を回らした複郭式の平城で、内郭は一辺九〇㍍の方形、平場と水堀(池)、土塁の一部が現存し、外郭は現在水田となっています。

宇多郡中於小深田歟輝宗合戦事

(前略)天正九年四月輝宗嫡子政宗両将共に出張被成伊具郡の内に金津小斎の間合子内矢野目に御陣を備らるる間相馬の両将も伊具郡の内枳沢大内の北の山に備らる此時分は毎暮野伏粜合騎兵十騎十五騎打交て草夜討止時なし(後略)

『奥相茶話記 巻第六』

天正九年(1581)五月条

○五月甲午小上旬 公政宗君相馬御戦トシテ伊具郡ニ出陣シ玉フ 嗣君御年十五歳御出陣ノ始ナリ天正六年 公越後御出張ノ節ヨリ相馬御戦ノ事ハ亘理兵庫頭殿元宗同源五郎殿重宗父子ニ命セラル然ルニ今度相馬長門守殿義胤亘理ニ向テ戦ヲ挑マル 公因テ御出陣ナリ相馬殿義胤ハ弾正少弼殿盛胤ノ嫡男ニシテ 稙宗君ノ御婿ナリ

○此年先年相馬ヘ襲ヒ取ラルヽ所ノ二邑(邑名不伝)ヲ攻取リ給フ二邑攻取リ相馬表ヨリ御帰陣何時ヵ不知五月十五日葦名殿盛隆ノ書中ニ度々調議御勝利ヲ得ラルノ由其聞ヘアリト云云是其二邑ヲ攻取リ玉フノ事歟然ラハ五月初ノ比ナルヘシ

『性山公治家記録 巻之四』

天正十年(1582)八月条

○八月己酉大 公政宗君伊具郡角田城ヨリ同郡金津ヘ御出馬廿日許リ御在留其後小斎ノ内矢目ヘ御陣ヲ移サル時ニ相馬殿ハ小斎金山ノ境明護山ニ備ヲ立ラル仍テ小斎城辺ノ山ヲ御陣城トシ給ヒテ相備ラル此節二本松主畠山右京大夫殿義継塩松城主大内備前定綱各人数ヲ率テ参陣セラル

『性山公治家記録 巻之四』

仙台領古城書立之覚

小斎村

矢目城 東西十三間 南北一五間 百九十五坪
右城ハ右戦場ニテ政宗取立之要害地ニ御座候

一柴小屋城 東西二十九間 南北十五間 四百三十五坪
右城ハ佐藤紀伊ト申者罷在候政宗一族ニテ佐藤右衛門先祖同祖ハ佐藤庄司二男朝教太夫藤原忠信後胤也

『宮城縣史32 資料篇9』

矢ノ目館跡へのアクセス

  • 〒981-2401 宮城県伊具郡丸森町小斎堂畑
  • 阿武隈急行「丸森駅」より車で13分
  • 常磐自動車道「山元IC」より車で16分

伊達政宗 初陣の地(北側案内板)

  • 〒981-2401 宮城県伊具郡丸森町小斎江越
  • 阿武隈急行「丸森駅」より車で13分
  • 常磐自動車道「山元IC」より車で16分

伊達政宗 初陣の地(南側案内板)

  • 〒981-2402 宮城県伊具郡丸森町金山西新田
  • 阿武隈急行「丸森駅」より車で9分
  • 常磐自動車道「山元IC」より車で17分

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