小谷山城(桧原城)跡の来歴
伊達政宗掟書 伊達政宗記録事蹟考記一
一、後藤孫兵衛被下候 政宗君御掟書之写
掟
一、当地(桧原城)ニ籠置候人数、自然草調儀其外時、無兵儀ニ候而、門より外へ打出候者ニ者、聞合則可及沙汰候者也、
一、無兵儀候者共有之候処、其方拙子ニ相包候者、其身之進退ニ可相懸候条、兼々心得共肝心ニ候、右如件、
天正十三年六月廿八日
後藤孫兵衛殿
右、後藤孫兵衛所持、諸年号一軸、元禄八年十月四日 御拝見、可被返下旨、被仰出、右、御記録へ写載之、
『北塩原村史 資料編』
会津要害録
桧原ノ塁
大峠ヨリ此方ノ峯ニアリ、天正十三年五月十一日伊達左京大夫正宗大塩ヲ襲ント〆桧原坂ヲ下リテ、先手已ニ鹿垣長原ノ辺マテ進ム、折シモ五月雨頻リナレハ、不叶〆桧原迄引レタル処ニ、昨日搦手ト〆田付ヘ向ヘタル原田左馬・新田常陸カ散々二敗軍シテ長井へ引返シタル由、急ヲ告レハ、イタツラニ此峯ニ要害ヲ構ヘ五十余日対陣セラルヽ、会津ハ太守亀王丸漸ク二才ナレハ、四天王ノ富田・平田等塩川ヘ出張〆弓断ナク下知ス、又桧原ニ居タル武士モ皆大塩ヘ集テ固ク柏木森ヲ守レハ、正宗モ襲来ン便テ尽テ、要害ノ成就スルヲ幸ニ〆、郎等後嶋孫兵衛ヲ残置テ同六月ノ末米沢ヘ帰陣也、
『北塩原村史 資料編』
会津古塁記
一、桧原村館本丸二十七間、六十六間、二丸十五間、四十五間、堀幅六尺、深寸三尺、
山高八十間、天文ノ始松本宮内方八十間地取而不成、天正十三年伊達政宗来築如斯成越年住政宗館ト云、
『北塩原村史 資料編』
伊達天正日記 天正十五年六月八日条
八日
一、天気よし、従桧原態のししの子参候、
『北塩原村史 資料編』
伊達天正日記 天正十五年六月十六日条
十六日
一、天気よし、桧原よりのくちきらせられ候、小十郎刀にて、ひかしの原にて、其後御鉄砲にてほしあそはし候、
『北塩原村史 資料編』
伊達天正日記 天正十七年六月一日条
うし 六月一日
天気曇申晩かたより雨ふり申候。いなハ代(猪苗代)之儀昼時分さん三(三蔵軒)・すかハの(酸川野)ゝ左馬助まいり申上候。それより小十郎罷立被申候。つちう(土湯)へ宮城のてつほう・ふかや(深谷)のてつほうさしこされ候。原田左馬助(宗時)、ひはら(桧原)へ則罷越被申候。新田(義綱)殿もとうせん(同前)ニ罷越御申候。
『北塩原村史 資料編』
伊達天正日記 天正十七年八月十八日条
ミ 十八日
天気吉。
従三春、浜田(景隆)罷帰被申候。御さうし(小次郎)様よなさハ(米沢)よりひはら(桧原)まて御出、それよりしほかハ(塩川)まて御こへ、しほかハよりくち〳〵御越被成候。よなさハをは、十六日ニ御立被成候。
『北塩原村史 資料編』
小谷山城(桧原城)跡へのアクセス
- 〒966-0501 福島県耶麻郡北塩原村桧原
- 磐越自動車道「猪苗代磐梯高原IC」より車で34分