一栗城跡の来歴
一栗城跡
室町時代末期に、奥州探題の大崎氏の家臣である一栗兵部隆春が築いて居城とした。東西約600メートル、南北約400メートルの範囲に、中館(本丸)、東館、小館、西館が馬蹄形状に配置され、それぞれが深い谷や断崖を防備に利用している。
中館には一栗兵部、東館には兵部の家来千田雅楽之丞、小館には兵部の家来半田土佐守、西館には兵部の祖父一栗放牛が居住していた。
天正十八年(1590)の大崎一揆の際には、兵部の一族がこの城に立てこもり、伊達政宗の軍に抗戦したが、翌年に大崎氏と共に滅亡し廃城となる。
江戸時代には、大崎氏の家臣、四釜氏が居住した。
岩出山教育委員会
『現地案内板』より
風土記御用書出
玉造郡下一栗村風土記御用書出
下一栗村
宿と申所
『宮城県史 第25(資料篇 第3)』
一古館 四ケ所
宿と申所
一中館 高弐拾丈余り 東西三拾八間 南北拾弐間 但城主氏家兵部高春
一東館 高拾六丈 東西弐拾間 南北拾間 但右家来千田雅楽之丞
宿と申所
一西館 高同 東西弐拾八間 南北九間 但御隠居祖父法牛
宿と申所
一小館 高同 東西四拾間 南北九間 但家来半田土佐守
一栗城跡へのアクセス
- 〒989-6404 宮城県大崎市岩出山下一栗宿
- JR陸羽東線「上野目駅」より徒歩29分
- 東北自動車道「古川IC」より車で24分
奥州の名家である伊達家に生まれた政宗は、18歳にして家督を相続。会津に覇を唱えた蘆名氏を滅ぼし、南奥の諸家を従えるも、領土拡大は秀吉の天下統一の前に挫折する。その後、豊臣、徳川に従うが、たびたび謀反の噂が立ち、後半生も平穏ではなかった。膨大に残された書状から、天下人への「野望」と「忠誠」がせめぎ合う生涯をひも解く。伊達氏研究の新鋭による、これまでにない政宗評伝。
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