奥州探題大崎氏の執事氏家氏の居城で、のちに政宗が十二年間居城とした

宮城県北西部、玉造たまつくり郡の南東にあり、奥羽山脈から東方に延びる玉造丘陵の末端に位置する旧玉造郡岩出山町。町域の中央、近世玉造郡の中心地として発展した旧岩出山本郷(現大崎市岩出山城山ほか)があり、標高一〇八㍍の城山には、奥州探題大崎氏の執事氏家氏の居城であった岩出山城(岩手沢城)があります。

かつて岩手沢城と称された城の規模は、東西約六〇〇㍍、南北約四〇〇㍍で、西から南尾根にかけて空堀が巡り、北辺は断崖で江合川から取水する内川が、南辺を蛭沢ひるさわ川が東流する天険の地で、北尾根には二〇〇㍍を超える細長い本丸があり、土塁を隔てて東西に二分され、周囲には多くの平場が設けられていました。

天正十四年(1586)大崎義隆の家臣新井田刑部と岩手沢城主氏家弾正吉継が対立。吉継に助勢を求められた政宗は、同十六年、大崎領へ派兵。しかし黒川晴氏の離反などにより新沼城篭城を余儀なくされ、泉田安芸と長江月鑑斎が人質となることで和議が結ばれるも、大崎合戦は伊達側の敗北で幕を閉じました。

天正十八年(1590)秀吉の奥羽仕置によって大崎領が没収され、岩手沢城主氏家吉継も病没。代わって政宗家臣の小成田総右衛門(後の山岡志摩)が城代として入城。同十九年、葛西大崎一揆平定後、一揆処理に派遣された徳川家康は、諸法山 実相寺を宿所とし、荒廃した岩手沢城修復の縄張りを行いました。

縄張りで使用された用具一式は、二ノ丸南端の高台に埋められ、政宗はその場所へ成島八幡の分霊を遷座せんざして八幡神社を建立、一帯は八幡平と称されます。天正十九年(1591)九月、新たな本拠岩手沢に入府した政宗はその名を「岩出山」と改め、慶長八年(1603)に仙台城へ移るまで、約十二年間居城としました。

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岩出山城跡(岩手沢城)へのアクセス

  • 〒989-6437 宮城県大崎市岩出山城山
  • 陸羽東線「有備館駅」から徒歩で13分
  • 東北自動車道「古川IC」から車で15分
  • 本丸跡およびSL広場に駐車可