大崎義隆の墓の来歴
宮城県北西部、北上川支流の江合川とそれに並行する鳴瀬川沿いに位置し、奥州探題大崎氏の支配領域にその名が由来するという大崎市。県内の穀倉地帯として名高く「大崎耕土」と称される市域のほぼ中央には、慶長八年(1603)に没したという大崎氏最後の当主、十二代義隆の墓碑が二基建立されています。
ひとつ目は、江合川北岸の低丘陵上、化女沼の南西に位置する旧栗原郡川熊村(現大崎市古川川熊)で、県道165号「古川岩出山線」沿いの小字「寺前」(東川寺跡)にあります。農道脇にある墓碑には、右側に「天正十五年十月八日 大崎義高公」、中央に大きく「桂光院殿蘭庭窓薫大居士」と刻まれています。
ふたつ目は、江合川南岸の平野部と北岸の丘陵地からなる旧玉造郡下野目村(現大崎市岩出山下野目)で、江合川北岸の小字「座散乱木」内の草薙神社・三光渕不動尊の境内にあります。草薙神社の鳥居を潜り暫く進むと平場があり、正面に「大崎義隆公碑」、側面に「佐藤かつよ」と刻まれた墓碑があります。
天正十八年(1590)八月、小田原征伐への遅参の罪に問われ、秀吉から大崎五郡の所領を没収された大崎義隆は、蒲生氏郷の客分として文禄の役に従軍し、晋州城の戦いに参加。後に上杉景勝に仕え、会津、あるいは山形で没したとされ、いずれの墓も追善供養として後世に建立されたものと考えられています。
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大崎義隆の墓へのアクセス
- 〒989-6236 宮城県大崎市古川川熊寺前
- JR東日本「古川駅」より車で14分
- 東北自動車道「古川IC」より車で8分
- 駐車場は、付近の国史跡「宮沢遺跡」の駐車場を利用可
大崎義隆公碑へのアクセス
- 〒989-6412 宮城県大崎市岩出山下野目座散乱木
- 陸羽東線「西大崎駅」より車で7分
- 東北自動車道「古川IC」より車で12分
- 農道沿いの草薙神社の鳥居が目印
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1979)『角川日本地名大辞典4 宮城県』角川書店.
- 大塚徳郎・竹内利美編(1987)『日本歴史地名体系4 宮城県の地名』平凡社.
- 大崎シンポジウム実行委員会編(2003)『奥州探題大崎氏』高志書院.
- 古川市史編さん委員会編(2008)『古川市史1 通史Ⅰ 原始~近世』大崎市.
- 古川市史編さん委員会編(2001)『古川市史7 資料Ⅱ 古代・中世・近世1』大崎市.
- 岩出山町史編さん委員会編(2009)『岩出山町史 通史編 上巻』大崎市.
- 岩出山町史編さん委員会編(2011)『岩出山町史 通史編 下巻』大崎市.
- 伊藤卓二(2017)『疾風伝遥かに 平成の大崎氏紀行』大崎タイムス社.
初めて大崎義隆 党首の歴史知りました。
亡くなった親父には 自分たちの先祖は大崎義隆 党首に
仕えたと聞いています。
合戦の最中に
奥方様とお女中に同行し岩ケ崎を超え一関の
葛西の殿様のところに行ったと聞いてます。
そして200~250年後に今の東大崎に戻ったと・・・
私で7代目と聞いていますが
その以前は不明なんです。
たまたま歴史を散策したらこの
ページにたどり着きました。
出来ればもっと知りたいと思います。
貴重なお話ありがとうございます。
大崎義隆についてはまだまだわからない部分が多いかと思いますが、古川市史などには比較的よくまとめられていたかと思いますので、参考になさってみてください。
古川市史/大崎市