伊達の無理境/峠の一本杉の来歴
奥州仙台領遠見記
湯原
刈田郡湯原村、町あり〔湯原町と云ふ〕、御領山形領御境御番所あり〔百石以上の者勤むる五ケ所の内なり〕、湯原より渡瀬迄五ケ宿は石川修理知行所なり、湯原に家中家柄の者指置なり、本道往還にて諸大名衆江戸への上下あり、町より八丁ほど行き追分ありて、左へ行く道御領二井宿の御境にて、年々春冬数ケ所数千駄の御城米、伊達梁川への駄送有り〔往昔ハ刈田郡一郡にて駄送せし由、追年駄送相倍さるに付き、中頃南六郡駕にて駄送しけれども、猶ほ駄送倍して駕雇賃償ひたく六郡にて成り兼ね、年々御恵も有けれども続き兼ね、寛保の頃より仙台領惣郡中償になり、尚上の恵もある所なり〕、二井宿御境迄二拾四丁余、道すがら谷地あり〔此所に谷地芭蕉と云ふ草あり〕、段々登り峯を越し、沢に御境あり、南は沢より峰へ御境にて仙翁沢山と云ふ、水落切西は高畠御領、東は仙台領、北は小山嶺水落切御境の由、九十九折なる所、西東より落合ひたる所に幅二尺許りの小沢へ土橋あり〔柴橋と云ふ〕、この橋落たる時は二井宿村、湯原村より各番に架け来る由、橋より少し北に御境杭あり、高さ七、八尺の柱へ南表に是より西米沢領御預り所とあり、寛保の頃迄は御代官所にて、是より西、佐山半治郎御代官所とありしが、その後御預り所になりし由なり、此所左右よりひぢ曲りになりたる所にて、道狭き所なり、アクト合セと云ふ、此所より三丁ほど西へ行き、殊の外急なる九十九折なる坂あり、此所の山古館なり、往古九代の政宗君米沢御領地の頃、御仮屋ありし所の由にて今御仮屋場と云ふ、此所にて御詠歌と云ひ伝ふ二首あり、
なか〳〵につゝら折なる道たへて雪にとなりの近き山里
山あひの霧はさなから海に似て浪かと聞けは松風の音
此所置玉郡二井宿村と云ふ、此所より高畑御領村々米沢に飯豊山と云ふ高山見ゆる、左に続き雪積りたる山、越後嶽と云ふ高山見ゆるなり、続きに朝日山続く由、二井宿町見ゆる〔御境より三里ほどある由〕、是より元の如く追分へ戻り、右へ行く道山形領御境なり、追分より二拾丁余行き一里塚あり、それより十丁余行き干蒲新田とて湯原村の内なる在家十五軒許りあり、街道左右に町の如く住居、間の宿なり、煮売り渡世するなり、街道は段々登りなり、御境より四、五丁手前、山の上に古道あり、此所を猿鼻峠と云ふ由、御境峰に榎二本あり、木の下に塚の如く石を積み置く、湯殿山参詣の者いつとなく積み重ねたる由、是より南は湯原分、北は村山郡楢下村、松平山城守殿御領分の由、境杭は双方共に無し、右石塚に並び街道東脇に三寸角、高さ三、四尺の杭へ、是より北へ百八十四間二尺楢下村掃除場とあり、それより二十間ほど北へ下り不動堂あり、三間四面赤木作り彫物など念を入たる堂なり、街道より右の方、山の中に立ち街道より左の下に別当の由、俗にて在家一軒あり、八兵衛と云ふ百姓の由、是より九十九折幾曲りともなく、一丁許り先は山立廻り見えず、楢下町まで下り坂の由〔御境より楢下町へ二里三十一丁ほどある由なり〕、右不動堂より十七、八丁行き金山と云ふ茶屋町ありて二十軒余ある由、往還の泊りなどにもなる綺麗なる茶屋にてありし由、近き頃は泊りなども禁ぜられ茶屋も寂びたる由なり、不動堂より北に見ゆる雪白の山、右は葉山、左は湯殿山なる由、その陰に鳥海山も見ゆるなり、是より湯原町へ戻る、町入口に禅宗鹿音山東光寺と云ふ寺あり、御先祖大膳太夫政宗君御位牌あり〔九代の政宗公と申奉るなり、年月は無し、応永十二年九月十四日御卒去と聞き伝ふ由なり〕、
東光寺殿儀山圓孝大居士 神儀
湯原町〔二井宿御境より二十四丁余、楢下御境より一里二十丁、湯原より上戸沢まで八里余あり〕、仙台への往還へ出るには関町より川原子通り宮村の内へ出る、又白石町へ出る道あり、中目峠とて白石、斎川の間へ出る道もあり、湯原の辺、雪積る事、時として軒を埋む程にて、その頃は往還の通路止まるなり、四月に至らねば雪消払ふ事なし、
又湯原村の内、稲子と云ふ所、先年論地にて伝奏の御沙汰になり、大肝入堀内七郎兵衛〔先年は山崎と云ふ由なり〕祖父七郎兵衛等召し登され御詮儀の上、落居、御境相立て候由の所あり、此所に稲子御足軽とて十二、三人〔御詮議に相登され候者の由、御取立て御足軽に成し下され候由なり〕指置かれ、七郎兵衛は御切米御扶持方下され自分組抜並に成し下され候事なり、
『斎藤報恩会時報(182)』
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伊達の無理境/峠の一本杉へのアクセス
- 〒989-0500 宮城県刈田郡七ヶ宿町蟹川
- 東北自動車道「白石IC」より車で53分
- 東北中央自動車道「南陽高畠IC」より車で18分