市指定史跡 長沼城址の来歴
市指定史跡 長沼城址(千世城・牛臥城)
昭和四十三年四月一日指定
文応元年(一説に南北朝時代ともいう)長沼氏が、この地に築城したのが起源というが、明らかではない。
その後戦国時代、ことに永禄三年(一五六〇)頃上り、長沼をめぐる南奥の戦国大名伊達・二階堂・芦名氏の激突が続いた。遂に永禄九年(一五六六)芦名領となり、芦名盛氏の家臣新国貞通の守城となった。以後、長沼城は、芦名氏の会津防衛および仙道攻略の拠点となった。
天正十七年(一五八九)芦名氏滅亡後、新国氏も伊達氏に屈服。翌十八年奥羽仕置のため、白河口より入った豊臣考吉が、八月七日長沼城に宿営している。このとき蒲生氏郷の家臣、蒲生郷安や蒲生主計が長沼城主となった。
慶長三年(一五九八)上杉領となり、信州長沼城より島津忠直が移城し、同五年の関ヶ原の戦いには、長沼城が上杉軍の前線基地となって いる。慶長六年再び蒲生領となり、蒲生郷治・玉井数馬介が城主として配備されたが、元和元年(一六一五)の一国一城令により、戦国の風雲に耐えた長沼城は、栄光の幕を閉じた。
平成二十一年十月一日
『現地案内板』より
須賀川市教育委員会
伊達天正日記
天正十七年(1589)八月条
う 十六日
天気雨ふり申候、
京都への御くう上、不入斎ニ御ほせつけられ候、夜入、新国上総守被罷出候、御談合さ候、むま 十九日
『戦国史料叢書 第2期 第11』
天気晩方少雨ふり申候、こいつミ殿御参候、晩ニ新国かつさ御めし被下候、その上御こし物被下候、御らんふ御さ候、御さうし様御越候、
佐竹義宣書状(秋田藩家蔵文書)
此度新国上総介政宗ニ随遂、無是非次第候、就之永沼之地任侘言進之候、猶無二忠信尤ニ候、委細中務太輔可被申理候、恐々謹言、
天正十七年
十月七日 義宣(花押)須田美濃守殿
『長沼町史 第2巻 資料編1』
会津四家合考
太閤会津御下向の事并氏郷会津恩賜の事
太閤小峯の城を御立ありて、長沼の城に入らせ給ふ。内々会津より、此城に置きたる新国上総介が、武勇の名誉ある由を 聞召され、頓て前へ召出され、先規の如く、彼者の所領下し賜はるべきの御諚なりけるを、余の姑しさに、傍の人に向って、上様にて知召されぬ田舎詞を、繰返して申したりければ、太閤、其事、何とも聞召し分け給はず、御気色替らせ給へば、上総は、しほしほと御前を罷立ちて、其後は何の御沙汰にも及ばず、終に蒲生氏郷に属して、又陪審となりたるこそ本意なけれ、(後略)
『長沼町史 第3巻 資料編2』
市指定史跡 長沼城址へのアクセス
- 〒962-0203 福島県須賀川市長沼日高見山
- JR東日本「須賀川駅」よりバスで「豊町」下車、徒歩7分
- 東北自動車道「鏡石スマートIC」より車で20分