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長谷堂城跡

最上氏の重要拠点で、伊達氏とは当地で度々合戦になっているほか、慶長出羽合戦では当城をめぐって直江兼続と最上勢の間で最大の激戦が展開され、城主志村光安が死守した。

長谷堂城跡の来歴

伊達植宗書状

就当口出張之儀、態御使者承候、快悦無極候、然而覃寒気候条、爰元始末相調、可入馬覚悟候、将亦長谷堂上山要害、至于今堅固候、定而可御心安候、委曲郡左馬助方附与口上候間、不能重意候、恐々謹言、

 九月十八日 左京大夫植宗(花押)

謹上 相馬次郎殿

『山形県史 史料篇15上 古代中世史料1』

伊達政宗最上陣覚書

政宗ゟ最上加勢遣申覚

一、旗元之鉄砲五百丁(中略)
一、伊達上野守備(中略)
一、津田豊前備(中略)
一、大條薩摩備(中略)

最上はたや之城ヲ直江山城責落、山形之本城長谷堂口迄進陣仕之由承、右之加勢遣被申候、慶長五年十月朔日朝五ツ時より取合始、及遊晩物別仕候、(後略)

『山形県史 史料篇15上 古代中世史料1』

史跡 長谷堂城跡

ここ長谷堂城跡は、山形城の西南約七キロに位置し、標高二百二十七メートル、比高約八十五メートルの独立丘陵に築かれた山城で、古くから天然の要害の地であった。

この地に城砦が築かれた時期は明らかではないが、永正十一年(一五一四)置賜の伊達植宗軍に一時占拠されたという文献が残されており、少なくともそれ以前であったと考えられている。

その後、最上領西南の守りとして、本沢川から導水して深堀をめぐらし、土塁を築く等強固な城砦に整備された。

慶長五年(一六〇〇)「出羽の関ヶ原合戦」といわれた攻防戦があり、全国きっての智将、会津の上杉景勝の家老直江山城守兼続が、山形の最上義光を攻めた合戦の折、最上軍の将、志村伊豆守光安が長谷堂城に拠って、二万数千の大軍の猛攻撃から、半月間にわたって凌ぎ城を守りきった。

このことから、長谷堂城は「難攻不落」として戦史に残る事になる。戦後、光安は加増され庄内酒田の亀ヶ崎城主となり、その後、成沢城から坂紀伊守光秀が移封され、長谷堂城下の整備に尽くした。広和二年(一六一六)光秀の没後、光重が後を継いだが、元和八年(一六二二)最上家改易と同時に廃城となった。

山形市の調査により、中世の城郭跡としてこれだけの虎口や曲輪の跡が残されているのは珍しく、学術的・文化的価値の高い史跡であることが明らかにされている。

平成十六年十一月吉日 山形市
本沢郷土研究会

『現地案内板』より

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長谷堂城跡へのアクセス

  • 〒990-2363 山形県山形市長谷堂
  • JR「山形駅」よりバスで「西向」下車、徒歩3分
  • 東北中央自動車道「山形上山IC」より車で11分

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