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龍門山 石雲寺

鬼庭左月良直が置賜郡川井村に創建した寺院で、茂庭氏の移封に伴い、孫の良元が菩提寺として現在地に遷座、のちに茂庭家霊屋が建立された。

龍門山 石雲寺の来歴

龍門山 石雲寺

石雲寺は元亀2年(1571)茂庭家の菩提寺として山形県米沢市川井に創建された。開基は茂庭良直である。慶長8年(1603)三代良元が松山に領地替えとなり、同10年(1605)現在の地に建立された。

伽藍の多くは二度の火災によって焼失し、現在の本堂は文久元年(1861)に再建されたものである。

境内には県指定文化財の「茂庭家霊屋」「コウヤマキ(天然記念物)」や市指定文化財の「茂庭家松山当主及び妻の墓域」「茂庭家霊屋内坐像群」「薬医門」がある。

平成23年3月 大崎市教育委員会

『現地案内板』より

茂庭家松山当主及び妻の墓域

茂庭家松山初代良元から十二代孝元までの当主及び妻の墓は、伊達家の葬法に則り墓石が配置されています。

初代良元から三代姓元までの妻の墓は、当主と同じ寺や墓域に配置することが許されず、そのために、初代から三代までの当主の墓は、宮城県有形文化財である茂庭家霊屋の下にあり、初代良元の妻・微笑院の墓は妙伝院に、二代定元の妻・月皎院の墓は霊屋の左後部に、又、三代姓元の妻・萬松院の墓は、霊屋の左脇に配置されています。

伊達家五代吉村の時代からは、伊達家の葬法が変わり、同じ墓域に当主と妻の墓が並列して配置されるようになり、茂庭家も四代嵩元から十二代孝元まではそれにならいました。

又、十三代邦元の墓は、石雲寺境内に茂庭家代々の墓として建立されましたが、茂庭家松山当主及び妻の墓域は、江戸時代から平成の現代までの時代背景をなし、歴史上及び学術上の価値が高いことから、平成十六年一月二十八日に史跡として松山町の文化財に指定しました。

平成十六年十月 松山町教育委員会

『現地案内板』より

石雲寺境内板碑群

板碑とは、亡くなった人を供養するための石で造った卒塔婆の一種である。板碑を造立することは寺院や五重の塔等を建築するのと同じ意味をもち、板碑を造立する人は仏に対して善根功徳を施したことになる。

『現地案内板』より

茂庭家霊屋[宮城県指定文化財 昭和61年5月13日指定]

茂庭家霊屋は、近世松山郷の領主茂庭氏のびょうで、曹洞宗龍門山石雲寺の境内にある。廟は当初「御影堂みかげどう」と呼ばれていた。その下には近世初代の良元よしもと(寛文3[1663]年没)・二代定元さだもと(寛文6[1666]年没)・三代姓元うじもと(宝永3[1706]年没)の墓がある。通常廟は一代一堂であるが、この廟は三代一堂として建てられている。四代嵩元たかもと以降の墓は廟の後方の小高い場所にある。

建立年代は、廟前の献灯二基の一つに『奉寄進 宝永5戊子歳7月26日茂庭三郎元咸もとしげ(註)』と記されており、この日は姓元の三回に当る。このことから廟の造営は姓元没後から宝永5(1708)年までに完成したものと推定される。

建物は素木しらき造、ほう三間(15尺8寸[4.78m])、宝形ほうぎょう造、芽葺で、中央に両折桟唐戸さんからど、両脇間に連子れんじ窓を設け、前面には一間分の向拝をもつ。軸部はすべて八角形に面取りされている。全般的に質素な造りながら雅趣に富んだ霊屋建築である。

室内はウグイス張りの床板敷きで、正面奥に壇を設け、壇上には良直よしなお綱元つなもと・良元・定元・升元なりもとと綱元妻・良元妻・定元妻の八体の彩色座像が、その背後には伊達・茂庭両家代々の
位牌が安置されている。座像はすべて70cm程であり、良直・綱元は平服姿、良元・定元はかみしも姿、升元は風折烏帽子えぼし狩衣かりぎぬの姿である。

(註)茂庭三郎元咸とは、姓元の二男で平渡村(現 鹿島台町平渡)茂庭家(1348石余)を興した人である。

平成9年1月 松山町教育委員会

『現地案内板』より

宮城県指定天然記念物

石雲寺のコウヤマキ

コウヤマキは高野槇、金松とも書き、裸子植物スギ科コウヤマキ属、樹高約23m、地上1.5mの幹周、約4.99mで円錐状をなしている。

この地には建治3年(1277)の板碑があり、室町時代の応永11年(1404)には遠藤盛継が嶺松山萬年寺を創建し、慶長10年(1605)龍門山石雲寺がその跡に移って現在に至っている。コウヤマキは一般に福島県が北限といわれており、このコウヤマキは鎌倉時代以後に植えられたものと推定される。

昭和63年3月 松山町教育委員会

『現地案内板』より

志田郡沿革史

第五編 名所旧跡

石雲寺 (松山町入町)

曹洞宗ニシテ龍門山石雲寺ト号シ松山町千石字大欅ノ山腹ニアリ長泉和ノ開闢ニシテ天正元年羽州米沢領永井郷川井村ニ一寺ヲ創立シ後法弟英甫其徒舜茂ト共ニ名取郡菅生村ニ龍雲寺ヲ開創ス比秋ニ当リ茂庭綱元領内ノ政務ヲ司リ篤ク佛法僧ノ三宝ニ帰依シ息良元ト共ニ龍雲寺ニ往来シ禅味ヲ慕ヒ長泉遷化ノ後英甫舜茂ト交リ最モ濃ナリ慶長八年良元松山ノ地ニ封セラルヽニ方リ奮交ノ親ミ此地ニ移リ爾来茂庭家ノ牌所トシ寺領三貫文ヲ食ム惜ムへシ二回ノ祝融ニ罹リ古記什宝烏有ニ帰セリ然シ現時ノ堂宇ハ当主敬元幼ニシテ祖母真珠院摂政時代ノ再建ニ成リ寧ロ旧観ニ倍次セリト称セリ此地高燥清潔東ニ面シ背後ハ翠巒重畳古杉稚松蓊欝トシテ神天ヲ摩ス(松樹ハ三十一世太道ノ植)台山ノ桜花ハ笑テ慈悲忍辱ノ相ヲ示シ庭頭ノ羅漢松ハ天ニ聳へテ五十ノ戒律ヲ顕ハシ共ニ三百年前ノ老桜古松ニシヲ真個ノ仏性ヲ表露セリ又霊屋境上ヨリ下瞰スレハ藍水湛然タル三段梯楷ノ溜池上鶯飛ヒ鵑走リ怨恨ヲ訴ヒ妙法ヲ談シ耳目自ヲ仙境ニ遊フノ感アリキ

『志田郡沿革史』

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龍門山 石雲寺へのアクセス

  • 〒987-1304 宮城県大崎市松山千石大欅91
  • JR東北本線「松山町駅」よりバスで「酒ミュージアム前」下車、徒歩11分
  • 東北自動車道「古川IC」より車で25分

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