支倉常長出帆の地 月浦の来歴
真山記
一八月十五日、遠島月浦※ヨリ、南蛮ヘ、大舟相立ラレ、支倉六右衛門ヲ頭トシ、今泉令史、松木忠作、西九助、田中太郎右衛門、内藤半十郎、其外、九左衛門、内蔵允、主殿、吉内、久次、金蔵ナド云者、此外、六右衛門内之者、惣人数合百八十余人ト也、南蛮人四十人、向井将監殿者、十人程、其外、商買人共乗、
一船ニ積候荷物ハ、御手前之外、カピタン手前、向井将監手前、三百コホリ許、其外、脇々ヨリ来テ積候分、四五百荷也、船ハ、横五間半、長サ十八間、高サ十四間一尺五寸也、帆柱ハ、十六間三尺、松ノ木也、又、ヤホ柱モ、松ノ木、長九間一尺五寸、但、六尺五寸間ニテ也、
一右材杉板ハ、気仙、東山、曲木ノ分ハ、片浜、西磐井、江刺、気仙ニテ取組、是ハ、船ノアバラニナル、船大工ハ、御扶持人与十郎、水手頭ハ鹿助、城助、向井将監殿ヨリ被付居ト也、奉行ハ秋保刑部、河東田縫殿也、
※戦国時代末期から江戸時代初期にかけての遠島は五十四浜といわれ、牡鹿郡三十六浜と桃生郡十八浜の総体だった可能性があり、その場合「月の浦」の別称がある現在の雄勝湾も候補地となってくる。
『磐水存響 乾』
貞山公治家記録
慶長十八年九月十五日条
◯此日南蛮国へ渡サル黒船牡鹿郡月浦ヨリ発ス支倉六右衛門常長并ニ今泉令史松木忠作西九助田中太郎右衛門内藤半十郎其外九右衛門内蔵丞主殿吉内久次金蔵〔以上六人氏不知〕ト云者差遣サル向井将監殿家人十人許リ南蛮人四十人許リ都合百八十余人其外商買人等共ニ同船ニ乗ル船中ニ商買荷物数百箇積メリ此時数年 本朝ニ逗留セシ楚天呂モ帰国ス 公方ヨリモ御具足御屏風等御進物トシテ彼国へ遣サルト云云船ヲ渡サル事去年彼国ヨリ書信ヲ 本朝ニ通ス因テ 大神君ヨリ御返書ヲ以テ商舶ノ来往ヲ許サル此故ニ 公向井将監殿ト相議セラレ去ル比ヨリ黒船ヲ造ラシメラル其材木杉板ハ気仙東山ヨリ出シ曲木ハ片浜通リ磐井江刺ヨリ採ル公義御大工与十郎及ヒ水手頭鹿之助城之助両人ヲ将監殿ヨリ差下サレ彼船ヲ造ル秋保刑部賴重河東田縫殿親顕両人奉行シテ頃日成就ス右船横五間長十八間高十四間一尺五寸アリ帆柱十六間三尺松ノ木ナリ又弥帆柱モ同木ニテ造ル九間一尺五寸アリ今度 公南蛮ヘ船ヲ渡サル事其地ノ様子ヲ検察セシメ上意ラ経テ攻取リ玉フヘキ御内存ナリト云云
真山氏記録ニ八月十五日出船ト記セリ誤リナリ元和六年 公ヨリ土井大炊助殿ヘ進セラル御書ニ先年向井将監申談シ南蛮ヘ船ヲ渡シ玉ヘル節数年 本朝ニ逗留セシ楚天呂ト云フ南蛮人帰国ス 公方ヨリモ御具足御屏風等御進物トシテ彼国ヘ遣サレタル由著サル然ルニ楚天呂八月甘一日御城ヘ参上九月朔日ニモ登城セリ又黒船御祈祷ノ御守札向井将監殿ヨリ九月六日到来ス彼此相考ルニ八月十五日出船ニハ非ス因テ九月十五日ニ決ス
『伊達家治家記録 第1』
支倉常長出帆の地「月浦」
仙台藩主伊達政宗は、慶長18年(1613)海外貿易を目的として、支倉常長ら慶長使節団をメキシコやヨーロッパに派遣した。月浦は使節一行を乗せた木造洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ」の造船・出帆の地として知られ、仙台藩の正史「貞山公治家記録」には、「南蛮国へ渡サル黒船牡鹿郡月浦ヨリ発ス」という記録が残っている。使節船は気仙・東山・磐井・江利などから船材を調達し、スペイン人宜教師ビスカイノらの指導のもとで造船された。
現在の月浦港には、南蛮人が航海のための水を汲んだとされる「南蛮井戸」や海軍元帥の東郷平八郎が揮毫した「支倉六右衛門常長解纜地碑」があり、現在地から市内へ車で20分ほどのところにある「宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン 館)」では、慶長使節やサン・ファン・バウテイスタの歴史と足跡を深く学ぶことができる。
『現地案内板』より
南蛮井戸
この井戸は、慶長18年(1613)木造洋式船「サン・ファン・バウティスタ」の出帆準備をする際、南蛮人といわれた外国人が船に持ち込む水を汲みあげたとする伝承がある。また、近くには造船に携わった南蛮人が滞在したとされる南蛮小屋があり、隣にある侍浜は、過船にかかわった武士の集落であったとされるなど、この地域にはサン・ファン・バウティスタに由来するさまざまな伝承が残っている。
『現地案内板』より
南蛮井戸と南蛮小屋
慶長十八年九月十五日(西暦一六一三年十月二十八日)、一隻の西洋式帆船が、ここ月浦を出港しました。
この船には、仙台藩主伊達政宗が、仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにヌエバ・イスパニア(現在のメキシコ等北中米のスペイン領)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣することとした使者である支倉常長、使節派遣を主導したフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ以下、一八〇人以上もの人々が乗り組んでいました。
この頃の日本では、朱印船など海外貿易が積極的に行われていて、幕府は、何隻かの西洋式帆船を建造しています。うち一隻は実際太平洋を横断しています。
伊達政宗が西洋式帆船を建造し、使者を派遣することとしたことも、この流れの中で行われたものです。
この西洋式帆船は、日本側の記数には「黒船」としか出てきていませんが、スペイン語では、「サン・ファン・バウティスタ」※と名付けられていました。
支倉らは、サン・ファン・バウティスタで、太平洋を渡った後、陸路ヌエバ・イスパニアを横断、イスパニア船で大西洋を渡り、イスパニアに至り国王フェリペ三世に謁見しました。支倉は、マドリッドで洗礼を受け、キリスト教徒となりました。
さらにローマに入り教皇パウロ五世に拝謁しましたが、幕府のキリスト教弾圧などから目的を達することができす、七年後の元和六年(一六二〇)、常長は帰仙しました。
この井戸はサン・ファン・バウティスタに関係した南蛮人(スペイン人)が利用したと伝えられています。また、この一帯は、南蛮人が滞在した小屋があったところと伝えられています。
※サン・ファン・バウティスタ:洗礼者聖ヨハネ(キリストに洗礼を施したキリストの従弟とも“はとこ”ともいわれる人)
平成二十五年九月
石巻市教育委員会
『現地案内板』より
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支倉常長出帆の地 月浦へのアクセス
- 〒986-2352 宮城県石巻市月浦月浦
- JR仙石線「渡波駅」よりタクシーで20分
- 三陸自動車道「石巻河南IC」より車で35分
欧南使士支倉六右衛門常長解纜地碑/南蛮井戸へのアクセス
- 〒986-2352 宮城県石巻市月浦月浦
- JR仙石線「渡波駅」よりタクシーで20分
- 三陸自動車道「石巻河南IC」より車で35分