ローダーイメージ
Night Mode Night Mode
Day Mode Day Mode

亀松山 東陽寺

西置賜郡小松に創建された原田家の菩提寺で、伊達氏の移封と共に船岡、更に寛文事件をきっかけに当地に移転し、後年旧臣らによって供養碑が建立された。

亀松山 東陽寺の来歴

東陽寺原田甲斐首塚伝説地

この寺は寛文事件の原田甲斐宗捕と縁のある寺である。甲斐の遺首をここに理葬し、のち数年を経て縁故ある旧臣が相寄り供養碑を建てたと伝えられるものが現存している。なお、七回忌にあたる延宝三年旧臣や恩顧を受けた入々が東陽寺に集まり、供養を行ったという一三九名の名を連ねた古文書がおさめられている。

『現地標中』より

東陽寺と原田甲斐

亀松山東陽寺は原田家の菩提所として応仁、文明(一四六七〜一四七二)間に羽前西置賜郡小松(山形県) に開創されたが、伊達家が仙台に移り元和三年(一六一七)原田氏は船岡(宮城県柴田町柴田町)移封された際、東陽寺もまた船岡に移った。

いわゆる「寛文事件-伊達騒動」で原田氏は断絶、船岡は米谷の領主であった柴田氏の領地となり、現在地にあった柴田氏の菩提所大光寺が柴田氏と共に船岡へ移り東陽寺がこの地に移転してきた。

寛文十一年(一六七一)三月二十七日大老酒井雅楽頭の屋敷で斬死した原田甲斐の死体は、芝山内の良源院に葬られたが、首だけは密かに船岡の東陽寺に運ばれ、後に東陽寺が米 谷に移るとき原田甲斐寄進の梵鐘に首補をかくし舟で密送、この地に埋葬し銀杏を目印しにしたと伝えられる。

延宝五年(一六七七)三月二十七日原田甲斐七回忌に当り、遺臣堀内茂助以下一三九名が密かに集り法要を営み、逆臣の汚名を受けた故主の孤忠を偲び追福を修した。その時の連名状が現在寺宝として当寺に蔵されている。

当寺は文化十三年(一八一六)火災で鐘楼門を残し全焼、現在の堂宇は同世代に再建されたものである。

『現地案内板』より

原田甲斐寄進の梵鐘と鐘楼門

原田甲斐が船岡城主のとき、寛文六年 (一六六六)東陽寺に寄進したものである。東陽寺米谷移転のとき、甲斐の首桶をこの梵鐘にかくして密かに運んだといわれ鐘楼門に架し撞くことがなかったので、里人は鳴らずの鐘と称し心ひそかに悲運の人甲斐の冥福を祈っていたが、昭和一八年強制的に供出させられた。由緒ある東陽寺の鐘のないのを遺憾として同士相諮り、昭和四十年復元再鋳し併せて別に鐘楼を新築したものである。鐘楼門の建築年代は東陽寺米谷移転の時と考えられ、当時の事情から建築様式は余り例のない珍しいものとされている。

『現地案内板』より

原田甲斐宗輔之墓

原田甲要の首を埋葬したと伝えられ、古くから里人は首塚とよんでいた。この供養碑は延宝七年(一六七九)に甲斐の遺徳を偲び、旧家臣等が過立したもので、当時は世をはばかり伏せてあったといわれ、刻まれた人名も後難をさけるため偽名を用いたといわれる。原田甲斐は死後永い間法名がなかったが、昭和三年曹洞宗大本山永平寺北野元峯禅師が左の法名をおくられた。

天真院泰道玄徳居士

『現地案内板』より

関連記事

RELATED ARTICLES
亀松山 東陽寺
RELATED ARTICLES
原田城(藤ヶ森館)跡
RELATED ARTICLES
町指定史跡 船岡館跡

亀松山 東陽寺へのアクセス

  • 〒987-0902 宮城県登米市東和町米谷越路83
  • 三陸沿岸道路「登米東和IC」より車で2分

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

書き出しに戻る
Close