伊達政宗本陣跡 陣場山/神明社跡の来歴
葛西大崎一揆で激戦の地となった佐沼城から西へ七〇〇㍍、登米市斎場がある一角に神明社跡が残されています。天正十九年(1591)一揆鎮圧時の政宗本陣跡として、佐沼中学校東側の高台に貞山公営址碑が建立され、御陣場山として親しまれてきました。
しかし陣場山は佐沼城攻めの最前線の位置にあって総大将の本陣を置くには適しておらず、また何れの記録も「政宗本陣は砂子山(大念寺裏から陣場山の一帯)にあり間には沼がある」とするほか「御陣所は今の神明の社地の由」と断定するものもあることから、現在は地理的にも本陣としての条件を満たす神明社跡が本陣跡と考えられています。
騒動後、葛西大崎領は政宗が新領主となり、佐沼城には湯目景康が配置されました。この神明社は元和三年(1617)景康が伊勢大神宮を勧請して建立し、古くには伊勢踊りが奉納されるなどしてきましたが、昭和三十七年の宮城北部地震で倒壊してしまい、現在跡地には記念碑が建立されています。
なお、付近の斎場には佐沼史跡保存会により郷土先覚者墓地霊苑が整備され、葛西大崎一揆の際に伊達軍に兵糧を献じたという飯田筑前をはじめ、地元先覚者たちの墓が残されています。
御陣場趾
貞山公御陣場趾鹿ヶ城の西北にあり。天正十九年七月の役、仙台藩祖貞山公の営趾なり。元松の古木ありたり、人呼んで貞山公の旗建松と云ふ、今は伐られてなし。大正二年九月此の遺趾を永遠に記念せんが為めに貞山公営址碑を建つ。碑の篆額は正三位伊達宗基伯撰文は文学博士大槻文彦の力作なり。明治四十四年の末郡長半田卯内有志と謀りて建碑を劃策し、苦心経営の間に佐沼町の大火あり、屢挫折せんとして堅忍三ヶ年克く此の建碑を遂行せり。今や旗建松の代木を植えて碑と共に永く保存せらるゝ事となれり。
『登米郡史 下』
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伊達政宗本陣跡 御陣場山へのアクセス
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