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岩上山 普門院/普門院館跡/羽黒神社/国指定史跡 上杉治憲敬師郊迎跡

板谷街道沿いの羽黒堂および別当の普門院から成る上杉鷹山所縁の国史跡で、天正年間、政宗が板谷峠越えで出陣する際には都度参詣し、酒などの献上を受けている。

岩上山 普門院/羽黒神社の来歴

伊達天正日記

天正十六年(1588)五月十四日条

五月十四日 とり
天気よし、巳ノ刻ニ御出馬也、山上之原迄御曹子様御かと送ニ御出也、普門院羽黒堂にて御酒上御申候、其後富沢伊与御酒上被申候、大小屋にて小や主御酒上申候、にわさか麓にて瀬上殿御酒上御申候、桑折殿御迎ニ御参候、さゝ木野之原へ桜田右兵衛、おての森へ草いたしくひ五ツもたせまいり被申候、生捕一人御座候由被申上候、又安子か嶋へ本宮・高倉相談を以、草いたし遂一戦、首ニッ上被申候、会津御前様御遠行之由きこへ申候、御日待也、

天正十七年(1589)四月廿二日条

い 廿二日
天気吉、御馬めしいたさせられ候、いたやに御とまり被成候、路次にてふもんいん・いつミさハいよ御酒上被申候、少雨もふり申候、夜ニ入、田村へ御一家・御一そく衆へ御状被指越候、従亘理坂本備後守御使ニ被参候、

『戦国史料叢書 第2期 第11』

貞山公治家記録

天正十六年(1588)五月十五日条

◯十五日丁酉天気快晴巳刻石川弾正退治トシテ米沢御出馬竺丸殿見送リトシテ山上ノ原マテ出サセラル◯羽黒堂ニ於テ普門院〔字諱不知〕御酒進上ス又富沢伊予モ御酒献シ奉ル◯信夫郡庭坂ノ麓ニ於テ瀬上中務景康御酒進上セラル桑折摂津政長〔播磨宗長嫡子〕御迎ヒトシテ参上セラル◯同郡佐崎野原ヘ桜田右兵衛元親参上小手森ヘ草ヲ入レ討捕ル首五級献上シ一人生捕ルノ由言上ス◯本宮高倉相談ヲ以テ安子島ヘ草ヲ入レ首二級討捕リ献ス◯入夜大森城御着御日待アリ

天正十七年(1589)四月廿二日条

◯廿二日己亥雨少降米沢御出馬此夜板屋ニ御宿陣内々大森城マテ日通シニ御出アルヘキニ御痛今ニ御快復ナラス其上路次山中故ニ御乗輿モ自由ナラス因テ営所ニ止宿セラル◯今日御路次ニ於テ普門院并ニ富沢伊予御酒ヲ進献ス◯入夜田村殿一家一族ノ輩ヘ御書ヲ以テ今日ノ御出馬ヲ仰遣サル◯亘理元安斎ヨリ使者坂本備後参着ス

『伊達家治家記録 第1』

国指定文化財(史跡)
上杉治憲敬師郊迎跡 羽黒神社

昭和十年六月七日 指定
所在地 米沢市大字関根

上杉治憲(鷹山)公が、家督を継いだ当時、藩財政は危機に瀕していたが、数々の大改革を英断し藩の窮状を救った。

このような治憲に大きな影響を与えたのが、最大の師・細井平洲であった。そして寛政八年(一七九六)九月六日、平洲との再会の願いが実現し、十三年振りの師との感涙の対面となった。このときの三度目の米沢下向の際、師平洲は六十九才、公は四十六才であった。

米沢藩再興の成果をぜひお目にかけたいとの願いが叶い、藩主自ら城外のこの地に恩師を迎え、鄭重にその労をねぎらったこの師弟間の敬愛の姿は人々の範とたたえられ、後世に受け継がれている。羽黒神社の本殿、境内等は「上杉治憲敬師郊迎跡」として国指定史跡となっている。

山形県教育委員会
米沢市教育委員会

『現地案内板』より

国指定文化財(史跡)
上杉治憲敬師郊迎跡 普門院

昭和十年六月七日 指定
所在地 米沢市大字関根

米沢藩中興の名君、上杉治憲(鷹山)公が恩師、細井平洲を城下より遠くここ関根の地に出迎え再会を果たした所である。

寛政八年九月六日、平洲三度目の米沢来訪に際し、城外のここ羽黒堂(羽黒神社)に迎え新築間もない普門院に案内し労をねぎらった。普門院には、休息をとった部屋や茶器、湯桶などの諸道具が当時のままのこっている。

上杉治憲公が高齢の師をいたわり礼をつくした様子は平洲門下樺島石梁(久留米藩の儒臣)に送った書簡に詳しく記され、境内にある「一字一涙の碑」はその一節を刻んだものである。

普門院の建物、門、庭園等は「上杉治憲敬師郊迎跡」として国指定史跡となっている。

山形県教育委員会
米沢市教育委員会

『現地案内板』より

国指定史跡 上杉治憲敬師郊迎跡へのアクセス

  • 〒992-1205 山形県米沢市関根13928
  • JR奥羽本線「関根駅」より徒歩9分
  • 東北中央自動車道「米沢八幡原IC」より車で9分

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