摺上原古戦場跡の来歴
福島県の北西部、耶麻郡東部の磐梯町・猪苗代町・北塩原村との境にあり、猪苗代盆地の北にそびえる火山、磐梯山。その磐梯山南麓裾野には、猪苗代町西部から磐梯町東部にかけて広がる原野、摺上原(磨上原とも書く)があります。
町指定史跡 三忠碑
摺上原は、天正十七年(1589)会津葦名氏と米沢伊達氏との決戦地となったことで知られ、原の中央、近世会津藩が鷹狩などを行なった際に藩主が布陣したという御上覧場には、摺上原合戦での葦名方の金上盛備、佐瀬種常とその子常雄の武勲を称え、会津八代藩主松平容敬が建立した三忠碑が残されています。
金上遠江守盛備之碑
葦名重臣で越後国津川城主であった金上盛備は、政宗が会津に攻め入ると手勢を引き連れ馳せ参じ、摺上原で伊達勢を迎え撃ちました。しかし葦名勢は総崩れとなり、盛備は片倉勢に追われ退却、大寺の西方で討死となりました。のち盛備の死を悼んで五輪塔が建てられ、この一帯は金上壇と名付けられました。
佐瀬大和守種常之碑
葦名四天王の一人で、大寺の東の大谷川沿いに居住していた佐瀬種常は、会津に攻め入った伊達の軍勢を防ぐべく摺上原に出陣。しかし葦名勢は劣勢となり、その退却の途中、大谷川端で討死しました。村人らはその死を悼み五輪塔を建立。文化二年(1805)には、会津藩がその地に碑を建て墓守を置きました。
佐瀬平八郎常雄之碑
葦名四天王の一人冨田美作の次男に生まれ、のちに佐瀬種常の養子となった佐瀬常雄は、天正十七年(1589)摺上原の戦に父種常とともに出陣。しかし敗れて西連寺村まで退却するも討死となりました。嘉永二年(1849)会津藩主松平容敬が建立した三忠碑には、金上盛備、種常と共にその名が刻まれています。
山内俊基の墓
また、佐瀬種常・常雄らが討死した付近には、戦いに参戦した滝谷城主山内俊基の墓が建てられるほか、旧更科村の狐塚付近には、磨上原の戦いの戦死者を祀った己丑戦将士碑も建立されています。この摺上原の戦いは戊辰戦争でも再現され、新政府軍は政宗と同様の軍略で会津侵攻を成功させたと伝わります。
町指定史跡 三忠碑へのアクセス
- 〒969-3283 福島県耶麻郡猪苗代町大字長田長田
- 磐越西線「翁島駅」より車で5分
- 磐越自動車道「猪苗代磐梯高原IC」より車で10分
金上遠江守盛備之碑へのアクセス
- 〒969-3301 福島県耶麻郡磐梯町大字磐梯金上壇
- 磐越西線「磐梯町駅」より車で5分
- 磐越自動車道「磐梯河東IC」より車で4分
佐瀬大和守種常之碑へのアクセス
- 〒969-3304 福島県耶麻郡磐梯町大字大谷金屋上
- 磐越西線「東長原駅」より車で5分
- 磐越自動車道「磐梯河東IC」より車で4分
佐瀬平八郎常雄之碑へのアクセス
- 〒969-3304 福島県耶麻郡磐梯町大字大谷金屋
- 磐越西線「東長原駅」より車で4分
- 磐越自動車道「磐梯河東IC」より車で6分
山内俊基の墓へのアクセス
- 〒969-3304 福島県耶麻郡磐梯町大字大谷館越
- 磐越西線「東長原駅」より車で7分
- 磐越自動車道「磐梯河東IC」より車で6分
己丑死戦将士碑へのアクセス
- 〒969-3302 福島県耶麻郡磐梯町大字更科下狐塚
- 磐越西線「磐梯町駅」より車で4分
- 磐越自動車道「磐梯河東IC」より車で6分