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田村御前の墓

旧伊達郡茂庭村(現福島市飯坂茂庭)にある墓標で、伊達政宗正室愛姫の生母(清顕後室)田村御前のものと伝えられているという。

田村御前の墓の来歴

福島県中通り北部、吾妻連峰、飯坂温泉などを控えた観光都市である福島市。その市の最北端、奥羽山脈の東部に広がる山間部に旧伊達郡茂庭村(現福島市飯坂茂庭)があり、南流する摺上川と支流布入川が合流する地点には、伊達政宗の正室愛姫の母である田村御前の墓が残されています。

田村御前は、相馬顕胤の娘で義胤の叔母にあたり、天文十八年(1549)三春城主田村清顕に嫁ぎました。天正十四年(1586)清顕が没すると船引城に隠居、秀吉の奥羽仕置で相馬領の堤谷に移り、のちに此処に移り住んだといいます。また仙台城北舘に住したともいわれ、墓は仙台の輪王寺にも残されています。

【編-637】田村氏寄進状

御しらはたへ、」へつして御ふつくてんに」田弐たん上申候、よく〳〵」をこたらす、御きねん御申」可有之候、

  慶長五年庚午

       拾一月廿日(印・田村)

         三神へ

『相馬市史 第四巻 資料編1 中世』

【編-640】伊達政宗書状

一富塚近江・中島大蔵・渡部助左衛門被下候御書写
  一段吉事満足たるへく候、我等御約束御知行方、軈而可被仰出候様体共候、已上
佐竹為始、岩城、相馬国替ニ被仰出候、秋田へ被遣由ニ候、依之相馬つつみかやニ、田村後室御座候、早々御迎被遣候而、仙台茂庭主水家をあけさせ候而、うつし置可申候、主水をハ信濃やしきへ、まつうつさせ可申候、御迎ニハ、御のり物一つ、くらおき馬十、こにた三十ほと可申付候、田村衆をそへこし候へく候、猶追而石見より可申越候、謹言、

           申刻

  五月十四日(慶長七年)  政宗御書判
   富近(富塚近江守信網)
   中大蔵(中島大蔵信貞)
   渡部佐(渡辺助左衛門一網)

右ハ渡辺半三郎所持、御記録へ摘載之、

『相馬市史 第四巻 資料編1 中世』

【補編-36】伊達政宗書状

 一両日中、きぜんを」くたしへく間、』
 万々、其時分、用共」可申下候、かしく、
御きた様へ進候」御知行之事、」てはんハ此以前」こし候と覚候、」身ノかたゟ別而」進候間、いつかた」にても、知行、早々」進上申へく候、」おうへの知行の」うちをと、おうへゟ」ことハりニ候へ共、さ」やうにもむつかしく」候間、別而可進候、』其ため一筆」遺候、謹言、

  極月廿四日(慶長七年〜元和四年) 政宗(黒印)

 茂石見殿

『相馬市史 第一巻 別冊 資料編 原始・古代・中世 補遺』

【2010】松平(伊達)美作守忠宗宛書状案

一忠宗君江之御書
先度申越候兄鷹、今度為相上候、遠島にて候間、別而秘蔵可然候、大鷹ハ不残 公方様江進上申候間、不及是非候、若被相返御鷹も候者可進候、将又御きた様御気色御脈も直り、御食も少々つゝ参候、此分ニ候者可為御本復と存候、吉事期後音候、恐々謹言、

    九月十二日(元和四年)
    松美作守殿

『仙台市史 資料編12 伊達政宗文書3』

貞山公治家記録

天正十六年(1588)五月条

◯廿三日乙巳雨御働キ止ム(中略)◯田村ノ後室ヨリ使ヲ以テ御酒贈進セラル

天正十六年(1588)潤五月条

◯廿五日丁丑田村ノ後室ヨリ使トシテ橋本刑部田村起雲斎参上ス

◯廿八日庚辰(中略)◯田村後室ヨリ使トシテ熱海内膳参上

天正十六年(1588)八月条

◯三日甲申伊達藤五郎殿ニ御料理ヲ賜フ(中略)◯此日田村ノ後室船引城ニ御隠居田村孫七郎殿宗顕三春本城ニ移リ住セラル

◯五日丙戌天気好暮ニ至テ雨降(中略)◯田村後室ヘ御使者トシテ内馬場能登ヲ船引ヘ差進セラル

慶長七年(1602)条

〇五月丙午小十四日乙亥富塚近江(諱不知)中嶋大蔵渡辺助左衛門一綱ニ連署ニ御書ラ賜フ其趣佐竹殿ヲ始メトシテ岩城殿相馬殿各国替仰出サレ佐竹殿ハ秋田ヘ遣サルノ由ナリ仍テ相馬津加美加也ニ田村ノ後室御座ス早々御迎ヒヲ差進シ仙台御城下茂庭主水良綱宅ヘ移シマイラスヘシ主水ハ先以湯村信濃親元屋敷ヘ移住スヘシ御迎ヒニハ御乗物一挺鞍馬十匹小荷駄三十匹許リ田村衆ヲ相添ヘ差遣スへシ猶追テ茂庭石見所ヨリ可申越ノ旨著サル此後田村ノ後室仙台ヘ御移アリ御北ト称セラル

御移ノ月日等不知茂庭石見三月十六日以後何時伏見ヘ登タル哉様子不知相馬殿国替ノ事ナシ此節如此申唱へタルト見ヘタリ

元和五年(1619)正月条

◯廿一日丙午 北御方ノ御母田村殿清顕ノ後室平氏仙台ニ於テ卒セラル(年寿不知)法名玉室性金大姉ト号セラル金剛宝山輪王禅寺ニ葬ル輪王寺亀隠和尚導師タリ是相馬殿顕胤ノ女ナリ去ル天正ノ末田村殿家跡断絶ニ就テ相馬領ノ津加美加也ト云フ所ニ引籠ミ御座ス其後慶長七年夏 公ヨリ御迎ヲ遣サレ仙台ヘ引取リ玉フ御城ノ北ニ住シ玉フ故ニ御北ト称セラル

※「相馬領ノ津加美加也」は行方郡堤谷村(現南相馬市原町区堤谷)のこと。

『伊達家治家記録 第1』

利胤朝臣御年譜 慶長七年(1602)条

一同月、堤谷御前伊達政宗ヨリ仙台江被移、

先太守讃岐守顕胤君ノ御息女、義胤君ノ御伯母、田村」大膳大夫清顕ノ後室、田村ノ家断絶ノ時、三春ヨリ」堤谷江被移、政宗内室ノ依為御母儀、三郡国替ノ節、」政宗ヨリ以使者演達、仙台江被移、政宗家頼後藤孫兵衛」駒ヶ峯堺江参上、御輿ラ請取、(仙台ノ城、此年築、岩手山ノ城ヨリ被移)

『相馬市史 第一巻 別冊 資料編 原始・古代・中世 補遺』

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田村館跡

田村御前の墓へのアクセス

  • 〒960-0271 福島県福島市飯坂町茂庭西川原
  • 福島交通飯坂線「飯坂温泉駅」より車で17分
  • 東北自動車道「福島飯坂IC」より車で23分

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