日枝神社/山王山 泉性院の来歴
福島県中通り北部、阿武隈川およびその支流の中・下流域に広がる福島盆地の中心、福島市。市域北東部、摺上川南岸の平坦地に旧信夫郡宮代村(現福島市宮代・瀬上町)があり、県道飯坂瀬上線沿いには、「宮代の山王様」と親しまれ、宮代山王宮、宮代山王社とも称される日枝神社と旧別当寺の山王山 泉性院があります。
信達三山王のひとつである日枝神社は、信達二郡の農民から厚い信仰を受けてきた古社で、永承年間(1046-1053)源頼義・義家父子が大山咋神・大己貴神を祀り、信夫国府の鎮護として創建。その別当寺、泉性院は真言宗の古刹で、文永二年(1265)広泉の開山、元和九年(1623)宥光の中興と伝えられます。
慶長五年(1600)十月、白石城を出て国見山に本陣を張った政宗は桑折筋進軍を指示、宮代表、松川南北岸で上杉勢を潰走させ、信夫山に陣を構えて福島城下に攻め入りました。この戦いの最中、政宗は泉性院の銀杏に馬を繋ぎ、陣を構えて作戦を練ったことから「政宗駒繋ぎの銀杏」と呼ばれるようになったと伝わります。
この福島合戦では、宮代山王社の禰宜上村新兵衛が政宗の陣に従って功を挙げ、翌年別当の泉性院とともに仙台城下町のひとつ、旧猿曳丁(現五橋二丁目・土樋一丁目)に移りました。町名の由来は、猿引が住した為とも、新兵衛が猿を可愛がっていた為ともいわれ、山王社はのちに向山の愛宕神社に合祀されました。
寛延二年(1749)九月、信達両郡六十八ヵ村の代表は、代官神山三郎左衛門の年貢増長策を協議するため山王社に集結し、翌十月、長倉村の斎藤彦内、伊達崎村の蓬田半左衛門、鎌田村の猪狩源七らを中心とした寛延一揆に発展。泉性院境内の念仏供養塔は、その一揆の犠牲者を弔うために建立されたものです。
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日枝神社へのアクセス
- 〒960-0116 福島県福島市宮代鍛治畑40
- 阿武隈急行「福島学院前駅」より徒歩14分
- 東北本線「東福島駅」より徒歩14分
- 東北自動車道「福島飯坂IC」より車で9分
泉性院へのアクセス
- 〒960-0116 福島県福島市宮代北口23
- 阿武隈急行「福島学院前駅」より徒歩16分
- 東北本線「東福島駅」より徒歩18分
- 東北自動車道「福島飯坂IC」より車で10分