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金鶏館、臥牛城とも称され、白石城、亘理城と並ぶ仙台領南端の防衛拠点

宮城県南部、阿武隈山地に囲まれた伊具郡の北半分に位置する角田市。市域南部、角田盆地のほぼ中央に旧伊具郡角田本郷(現角田市角田)があり、斗蔵山とくらやまに連なる丘陵地が阿武隈川の氾濫原に突き出る標高三〇㍍の台地上には、伊達一門筆頭石川昭光の入封以後、明治維新まで代々石川氏の居城となった角田城跡があります。

臥牛城とも称された角田城は、八幡山を背に谷地、大沼、舟沼、赤沼を備えた後堅固の梯郭式ていかくしき平山城で、東西四〇〇㍍、南北四五〇㍍、最高所の細長い本丸に居所と付随して懸造かけづくりの建物を設け、周囲は二重、三重に濠を巡らし、土塁を築いて、大手門、桝形代わりの蔵、兵具蔵、馬屋などが配されていました。

最初の角田城主は田手宗光で、元亀元年(1570)中野宗時らの謀反むほんが露見した際、宗光らが逃亡を助けるも、実元の取り成しにより宗光の子宗時が角田城を安堵されました。天正十年(1582)四月、輝宗・政宗は相馬との戦いで角田城に在陣。同月、城主宗時は相馬表で戦死、嫡子ちゃくし宗実が角田城主となりました。

天正十九年(1591)田手宗実が所替えとなると、伊具郡十六郷・柴田郡一郷を賜った伊達成実が角田城主となって二本松から移りました。しかし、文禄四年(1595)秋、成実は伏見において出奔。政宗は屋代景頼に命じて角田城接収と成実家中を退去させようとし、羽田実景らが抵抗、三十余人が討死しました。

慶長三年(1598)十月、石川昭光が角田城に所替えとなり、志田郡松山城から移りました。同五年の白石城攻めの際、成実は昭光の客将として復帰、同七年十二月には亘理城を賜りました。以降、角田城は角田要害として明治維新まで石川氏が在城。廃城後、角田城の城門が長泉寺と旧氏家邸に移築されました。

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角田城跡へのアクセス

  • 〒981-1505 宮城県角田市角田牛舘
  • 阿武隈急行「角田駅」から徒歩で20分
  • 常磐自動車道「山本IC」から車で20分
  • 東北自動車道「白石IC」から車で29分

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kenc0224

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南奥羽の名所旧跡を悠々閑々と訪ね歩き、物見遊山に日を暮らす掃苔家で巡拝家、偶に登城家なブロガー。掻い撫での道楽なため歴史は苦手。大河は、独眼竜政宗、炎立つ、八重の桜(会津編)、真田丸がお気に入り。雨降りの日は籠居して、家紋の図案を物します。