宮森城跡の来歴
福島県中通り中央北部、阿武隈山地の西麓を形づくる旧安達郡岩代町。町域の西端、移川の支流小浜川沿いに旧宮守村(現二本松市小浜)があり、小浜集落の南方にある比高五十㍍余の丘陵上には、二本松城主畠山義継による伊達輝宗拉致・故殺事件「粟ノ巣の変」勃発の契機となった城館、宮森城があります。
小浜城(下館)に対して上館とも呼ばれる宮森城は、南北七〇〇㍍、東西三五〇㍍、北へ突き出た舌状台地上に築かれた中世の山城で、小浜川による谷間を隔てて小浜城とは対となり、谷間には小浜の集落が形成、尾根筋には堀切で遮断された連郭式の郭が配され、両城は呼応・連携する位置関係にありました。
宮森城は、応永三年(1396)宇都宮氏広が四本松城を当地に移し、応永七年(1400)これに代わった石橋棟義がもとの古館に還して移したとされ、文明三年(1471)石橋氏重臣大河内修理が城を改修、宮森城と称して居城とするも、永禄年間、大内備前定綱が大河内氏を攻め滅ぼし、宮森城を手中に収めました。
天正十三年(1585)小浜城主大内定綱討伐を決した政宗が小手森城を陥落させると、定綱は小浜城を捨てて会津に敗走。政宗は小浜城、輝宗は宮森城に入り、それぞれ下館・上館と称しました。塩松を掌中にした政宗は、次に二本松畠山氏攻略を策するも、畠山義継は伊達実元を介して赦免を願い出てきました。
さらに義継は窮状を訴えるべく輝宗のいる宮森城に参上。輝宗は政宗のいる小浜城に赴いて義継嘆願の件を伝えるも、政宗はこれを許さず、五ヶ村のみの安堵で落着しました。義継はこの条件に甘んじて服属を覚悟し、間を取り持った輝宗への御礼として成実を介し謁見を申し入れ、再び宮森城に参上しました。
謁見を終えた義継は暇乞をすると、見送りに出た輝宗に脇差を突き付け従者らで取り囲み、二本松へ引き上げようとしました。傍に詰めていた政景・成実らも突然の出来事になす術がなく、ただ追い縋るのみでしたが、やがて二本松を目前にした阿武隈河畔高田原に至り、輝宗は非業の死を遂げる事になります。
現在、「宮森城址碑」が建つ主郭の南側には矢取八幡神社が祀られるほか、西側の大手筋には城の水の手で輝宗ゆかりの湧水という「御膳清水」が、さらに城を取り囲むように旧宮森城主大河内備中とそれを攻める大内備前定綱らとの因縁の史跡、「腹切石」「遺児が墓」「かっか石」なども伝えられています。
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国指定史跡 二本松城跡
宮森城跡へのアクセス
- 〒964-0313 福島県二本松市小浜古明神
- JR「二本松駅」よりバスで「小浜」下車、徒歩27分
- 東北自動車道「二本松IC」より車で18分
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1981)『角川日本地名大辞典7 福島県』角川書店.
- 平井聖・ほか編(1981)『日本城郭体系3 山形・宮城・福島』新人物往来社.
- 福島県教育委員会編(1988)『福島県の中世城館跡』福島県教育委員会.
- 岩代町史編纂委員会編(1989)『岩代町史 第1巻 通史編』岩代町.
- 岩代町史編纂委員会編(1985)『岩代町史 第2巻 資料編1 原始・古代・中世・近世』岩代町.
- 岩代町史編纂委員会編(1983)『岩代町史 第3巻 資料編2 近代・現代』岩代町.
- 岩代町史編纂委員会編(1982)『岩代町史 第4巻 各論編 民俗・旧町村沿革』岩代町.
- 岩代町史編纂委員会編(1987)『岩城町の城館 第1編 城館』岩代町.
- 岩代町史編纂委員会編(1987)『岩城町の城館 第2編 小浜城跡発掘調査報告・第3編 四本松城跡〜発掘調査概要〜』岩代町.
- 庄司吉之助・小林清治・誉田宏編(1993)『日本歴史地名体系7 福島県の地名』平凡社.
- 福島民報社編(2007)『武者たちの舞台 ふくしま紀行 城と館 上巻』福島民報社.
- 飯村均・室野秀文編(2021)『続・東北の名城を歩く 南東北編 宮城・福島・山形』吉川弘文館.