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金上遠江守盛備之碑

蘆名氏重臣で越後の津川城主であった金上盛備の碑で、摺上原の戦いで討たれた盛備の死を悼み、明和二年に建てられた。

金上遠江守盛備之碑の来歴

新編会津風土記巻之五十三 大寺村・本寺村

墳墓

金上遠江守盛備墓

大寺村ノ北一町五十間余ニアリ、四尺計ノ五輪ナリ、後ニ古松樹アリ、天正十七年六月五日磨上ノ役ニ、盛備味方ノ者トモ身ニソマヌ軍シテ敗軍ニ及ヒ、国難ニ徇フ者ナキヲ憤リ忠死ス(葦名記ニハ磨上ノ役ト盛備ノ討死ヲ六月五日ノ事トシ、河沼郡坂下組金上村金上寺ノ盛備位牌ニハ、仏照院殿一岳道無居士六月十五日トアリ、共ニ誤ナリ、盛備カ伝ハ津川町ノ条下ニ出ス、越後国蒲原郡津川町新善光寺天正中ノ過去帳ニ、功岳宗忠居士大禅定門金上殿六月五日トアリ)、カカル忠臣ナレハ伊達氏命シテ厚ク葬ラシメシトイフ、今猶霊威残リテ、瘧ヲヤムモノ竹木ニテ太刀長刀ヲ作リ報賽スレハ其応アリトソ、文化二年ヨリ年年一夫ノ役ヲ免シ、其墓ヲ掃ヒ荒穢セサラシム、側ニ碑アリ、其文如左

夫枕戈執戟者、勇略之誉、而帯刀挟矢者、威武之業也、是平生習弓箭、熟干戈、得飛騰攻撃之所致、而其性之剛強、義勇亦与之焉、曽聞金上盛備、自称兵庫葦名氏之支族而仕葦名家、且為執事、与針生某並掌国命其主器之而以客遇矣、食邑干金上、摂理干津川、住干狐戻城、是乃以接越羽之藩而蔽西北也、為人質直温厚、常嗜和歌、風騒文雅、豊臣秀吉賞之、細川藤孝嘆之、天正九年奉其主盛隆之命入洛、詣闕之日任遠江守、十月発会津之路、於志賀山中有口号、同十二年関柴備中之乱、奮勇而帥部下之士五百人合戦、且与伊達家臣片倉原田接鋒、遂破其軍、同十三年其主亀王逝、老臣四輩議曰、以政宗之弟正道為嗣、然則解旧怨、令請和睦、疆土無事、民庶可安、盛備不肯其言而曰、不可也、宜佐竹義重之弟義広為嗣、庶臣従其議以盛興之女配焉、大縄讃岐・刎石駿河二人、従義広而来干会津、欲列老臣四輩而与国事、四臣不可、二人啣怨謀乱、盛備喩之而得無事、同十七年、義広与伊達兵士、会干摺上原而敗績、義広走黒川後遁常州、盛備緊散卒而血戦数回、或折刀槍身多被疵、発言励卒而日葦名家臣奕世食禄者数千、而何無当此時而一人死干国難者矣、是可恥之大者也、我深懐国士之遇、則敢得与売国降敵者並称耶、授命死節在干今日、乃与麾下之士数人自殺而死焉、干時天正十七年己丑夏六月十有五日、法名号仏照院殿一岳道無居士、方今会津城乾金上邑金上寺、嘆高名之没干末世、且欲義気之称干千載而刻石、紀功之志相決而成矣、因属紹介請銘於余、故応其求以作之銘

挺然独立、狐戻之城、勇猛義気、剛勁忠情、臨危守節、忍死捐生、後世刻石、以紀功名

明和二年乙酉季春下澣

国子祭酒朝散大夫林愿子恭父誌

寛政八年丙辰夏四月応覓

玉潭山維明書

『新編会津風土記 第三巻』

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金上遠江守盛備之碑へのアクセス

  • 〒969-3301 福島県耶麻郡磐梯町磐梯金上壇
  • JR磐越西線「磐梯町駅」より徒歩13分
  • 磐越自動車道「磐梯河東IC」より車で4分

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