ローダーイメージ
Night Mode Night Mode
Day Mode Day Mode

町指定史跡 河股城跡

天正十三年閏八月、大内定綱討伐を決めた政宗は、援軍の田村清顕と合流して当地へ馬を進め、小手森城攻撃に向かったという。

河股城跡の来歴

政宗記 巻一 青木修理忠節事

(前略)去程に修理証人のことは心安、其日に小浜へ向て火の手を挙げ、手切して成実所へ注進なり。急ぎ此旨米沢へうかゞひければ、自身(政宗)出給ふ迄では遅きとて、小梁川泥蟠・白石若狭・浜田伊豆・原田左馬介四頭、給し玉ふを成実同心にて、苅松田近所飯野と云処に在陣させ、成実は立根山と云在所に打越陣を備へ、政宗も同八月十二日に信夫の福島へ馬を出さる。然る後、四本松(塩松)を絵にして上よと宜ひ、絵師を付られ、絵図きはまり差上げるを見玉ひ、苅松田近所より働くべしとて、小手郡川股と云処へ陣を移され、働く前に清顕へ蕨ヶ平と云処にて、縁組の以来九年目にして始めて対面し給ひ、同二十三日には小手森へ働くべしと、清顕へ宣ひけれども、大雨なれば廿四日に働き給ふ。(後略)

『戦国資料叢書 伊達史料集(上)』

天正十三年閏八月条

◯十七日乙酉。伊達郡川股ニ御陣ヲ移サル。蕨平ニ於テ田村殿ヘ御對面、來ル廿三日小手森ヘ御働キ有ルヘシト仰合ラル。

『貞山公治家記録』

関連記事

RELATED ARTICLES
小手森城跡

町指定史跡 河股城跡へのアクセス

  • 〒960-1405 福島県伊達郡川俣町東福沢舘山
  • JR東日本「福島駅」よりバスで「川俣日和田」下車、徒歩7分
  • 相馬福島道路「霊山IC」より車で20分
  • 川俣町体育館に駐車場と登城路があるほか、北側の川俣トンネル東側入り口にも案内板と登城路あり

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

書き出しに戻る
Close
著者一覧