ローダーイメージ
Night Mode Night Mode
Day Mode Day Mode

小手森城跡

小手森城の撫で斬りとして後世語られるようになった大内氏の支城で、現在山頂には愛宕神社が祀られる。

小手森城跡の来歴

福島県中通り北部、安達太良山の東麓から阿武隈高地の西部にかけて位置する丹羽氏十万石の城下町、二本松市。市域北東部、口太山の南西麓に旧安達郡小手森村(現二本松市針道)があり、梁川街道と相馬街道との交点近くの愛宕森には、撫で斬りの惨劇で語り伝えられる大内氏の支城、小手森城があります。

小手森城は、標高四六三㍍、比高約百㍍の愛宕森と呼ばれる小山にあった城館で、城域は約五百㍍四方、愛宕神社が祀られる山頂に主郭、その北東側、更にその東側に狭長な郭があり、南北には帯郭が配されていました。麓の集落には、今も大町、下幕ノ内、馬場平、下馬場、北作、西作などの地名が残ります。

天正十三年(1585)閏八月、田村清顕の要請もあり、小浜城主大内定綱討伐を決定した政宗は、刈松田城主青木修理の内応を機に米沢から杉目城に着陣。修理と謁見して太刀を与え、絵図提出を命じました。これにより政宗は田村からの不便を察し、清顕同陣の約束を履行する為、最初に小手森攻めを決定しました。

同月十七日、政宗は川俣に陣を移し蕨平で清顕と謁見。二十四日、小手森城攻撃に踏み切りました。対する定綱は居城小浜城から小手森城に乗り込み、小浜救援の蘆名、二階堂、畠山らの軍勢も近くに布陣しました。しかし城兵は城から出ず、夕方近くの小競り合いの後、定綱は兵を預けて小浜に帰城しました。

二十七日未明、成実は政宗に伺わず竹屋敷に陣を進め、留守政景もこれに同道。これを知った政宗は総陣進撃を指示し、大内家臣の石川勘解由が降伏を願い出るもこれを許しませんでした。成実らが城に攻めかけ火を放つと、折しもの強風に瞬く間に燃え広がり、城兵は持ち場を放棄して遂に落城となりました。

政宗は(閏)八月二十七日付の最上義光宛書状に「大備身類共相添え五百余人討ち捕らへ、其の外女童申におよばず、犬までなで切に成させ候条、以上千百余人きらせ申候」と記し、翌日の後藤孫兵衛宛書状に「二百餘撫切」、翌月の虎哉宗乙宛書状には「八百人計討捕候」と、其々異なる戦果を報じています。

小手森城に対する猛攻に怯えた大内方の諸城(新城木こり山かち内館、ひたち館)はその夜のうちに自落。以降、政宗は樵山、築館に逗留、後に清顕の進言から田村領黒籠に陣を移して岩角城を巡見。退路を経たれると判断した定綱は小浜城を棄てて二本松に走り、会津の蘆名氏のもとに落ちていきました。

塩松領の伊達領国化が確定し、政宗は小浜に入城。小手森城は石川弾正に与えられるも、同十六年(1588)弾正は政宗に叛き挙兵、小手森城は政宗により再び落城となりました。また、菊池氏の菩提寺最勝寺にはコウヤマキの巨木があり、討ち死にした当時の城主菊池顕綱らが葬られているとの伝承が残ります。

【21】最上義光宛書状

急度以脚力申届候、仍今日廿七日、先達」申候ッ小手森之要害、昨日取廻及近陳ニ」候処ニ、通路者相留候得共、十日廿日者、彼要害」先以相抱可申候様ニ見当申候間、自身乗寄、」相手之鉄砲八千丁あまり相懸、則とり」付候間、落城申候、尤城主ヲ為始、大備身類」共相添五百余人討捕、其外女童申ニ」およはつ、犬訖なて切ニ為成候条、以上千百」余人きらせ申候、因之ニ二時計か内ニ、一新城、」一木こり山、一かち内館、一ひたち館、一小手森相添、五ヶ」所属手裏候、四ヶ所者自落申候、大備」居館小浜より前ニ者、敵地一ヶ所も無之候、」拙子名理も候哉与存候、此上者須加河訖」打出、関東中も手安候、万々期後音候、」恐々謹言、

追啓、」定而当世之ならひにて、」是をも偽とおほし候へく候、」世上より其隠、」不可有之候、以上、

   (天正十三年)
    八月廿七日 政宗(花押)

     山形殿

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【22】後藤孫兵衛宛書状

一政宗君ゟ後藤孫兵衛ニ被下候御書写

此口様子之事、小手森責落候而、二百余人撫切、不知其数候、定而可為満足候、当口之事、多易候間、可心易候、爱元之義、上民江申理候間、不能細書候、謹言、

  追啓、要害共五ヶ所、同日ニ自落候、

 (天正十三年)
  八月廿八日 政宗御書判

    後藤孫兵衛殿

(中略)右、後藤孫兵衛所持、数通一軸、元禄八年十四日 御拝見、可被返下旨、被仰之、右、御記録江摘載之、

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【24】資福寺宛書状

一資福寺虎哉和尚江被遣候御書写

辛便之条、令啓之候、抑去廿四日、於当表合戦候而、敵数多討捕、号小手森候地、二之構迄取敗、無近年手際ニ候つ、同廿六日小手森へ及近陳、次同廿七日、一身之以見当則責敗、為城主始、大備親類之面々、其外男女共ニ無残為討、以上八百人計討捕候、其以威光、同日ニ五六ヶ所落城、又者廿九日当口槻館自落居ニ候、即時ニ乗入、爰元ニ在馬候、尚珍敷義於出来ニ者、可申越候、恐々謹言、

  (天正十三年)
   九月二日 政宗御書判

    資福寺へ

右、資福寺所持、元禄八年十月八日御拝見、被返下之、御記録江摘載之、

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【247】白石右衛門宛書状

乍便札、染一簡候、安口へ会衆打出候由、様子無」心元候、作調儀之砌ニ者、未得時ヲ候、只々片」平堅固ニ可相抱之用所ニ可有之候欤、併」高倉・本宮筋へ及其賦候間、旁以可心安候、」随而青因一昨日使ヲ指越、小手森近辺へ、」以見当取出をも候而、石弾可取詰之段、態申」登候、尤可然之段、即刻令挨拶候、何ニ其表」珍敷事候者、住進所希候、恐々謹言、

追面、」其元へ者、幾度」自筆ニ而遣之候条、」いらぬ文をハ、」即火中任入候、以上、

   (天正十六年)
    四月十八日(巳刻) 政宗(花押)

     白(白石宗実)

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【251】桜田兵衛尉宛書状

来札被見候、仍石弾、小手森へ打出候つる哉、」無是非次第候、此上以塩味令出馬、可討果」迄候、乍勿論、日々夜々、草其外、其身」加世義此時候、石弾二人共無之重恩」相請、如此之刷、生々世々、口借次第候、」替義候者、則可申越候、謹言、

 追而、」木こり山ニ青因」取出候、自然之」義候者、懸引之」事、任置候、」以上、

   (天正十六年)
    四月晦日 政宗(花押)

     桜兵

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【252】伊達五郎宛書状

白石相談之上、以書付承儀、可被得其意候、」安口へ出馬之事、石弾小手森へ取出候上者、不」入事ニ候条、彼口へ令出張、可討罰訖ニ候、」今日談合落着候、愚存之旨、羽因口裏ニ」委細申含候条、不能具候、恐々謹言、

 追而、」時宜同意候条、」白ニも此由、」申理計候、以上、

   (天正十六年)
    五月朔日 政宗(花押)

     五郎殿

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【258】白石右衛門宛書状

書之内、再三被覧、令満足候、出馬内々」十日比与覚悟候処ニ、以之外悪日ニ候条、十四日訖」相延候、旁以、手延之様ニ可被取置候欤、無是」非次第ニ候、敵中不調ニ候刻、不図之出張」候者、諸事可然由、雖令分別候、悪日故、延引候、」中々無念之至候、将赤、小手森如何様ニ持候」哉、於敵中ニも、初動者、慥小手森へ可有之由、」可為覚悟候間、出馬之上見合、月へも可能候、」打出候刻、哀々横合無之、早々討果、旁々」隙をも為明、入馬念願ニ候、万慶期来日候、」恐々謹言、

 追而、」書中文言、急候間、取分」不可有摼候、無心元候、」幾度も左様ニ」可有之候欤、以上、

   (天正十六年)
    五月八日 政宗(花押)

     白右

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【263】中島伊勢守宛書状

急度馳脚力候、仍昨廿一、向小手森及調」義候、尤敵不出合候間、三之構迄、及箭入、」麦作悉払地薙棄、壚成置候、今日雨」中ニ候間、明廿三、猶向彼地、可及行候、然者、」義胤百目木之地へ被打越候由、其聞候、」此刻自其口、為内々草可指越候、先々」尻籠なとハ無用ニ候、自相此口へ被打出候」義共候間、如此候、其心得候て、草可指越候、」吉事重而、恐々謹言、

 追而、」此由、佐紀へも」相理度候、」以上、

   (天正十六年)
    五月廿二日 政宗(花押)

     中伊

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【276】桑折播磨守宛書状

今日十六日、向小手森ニ及調儀、以見当、自身」乗懸、鉄砲悉相懸候処ニ、少持合候 、頻」為責引敗、四百余人討取、切捨無際」限候、味方中ニ、手負ニ而も多無之候、」後日可有其聞候、将亦、義胤于今船引ニ」在馬候、然処ニ、田之面々、各無二ニ此方へ皆」奉公ニ而候条、義胤相へ可被打返路次、一筋も 」無之候間、相馬之義、此表ニ而隙可明由存候、」上下之満足、此方様子可被察候、旁喜」察入計候、此由、鮎貝へも飛脚遣度候へ共、」人馬労候条、無其義候、此文ヲ可被届候、」鮎貝より荒砥へも御越候得由、伝達任入候、」

 追啓、」□休斎所へ、」□礼申度候、以上、

   (天正十六年)
    潤五月十六日 政宗(花押)

      桑播

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【277】中島伊勢守宛書状

今日十六、向小手森及調義、則責落、」相馬警固之面々為始、五百余人討取候、」定而太慶ニ可有之候、此上打続向石川、」可及動候、此刻自其元も、各々相談之上、」懸引之刷、任置候、恐々護言、

   (天正十六年)
    壬五月十六 政宗(花押)

     中伊

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【278】中島右衛門尉宛書状

急度啓之侯、今日十六、向小手森之地及」調義、則責落、五百余人討取候、定而」太慶ニ可有之候、此上打続向石川ニ可及」動候、彼地落居も不可程候条、於時宜」可心安候、尤其元境々無油断様任入候、」恐々謹言、

 追而、」此由、秋保・」砂金へも可」被相理候、」以上、

   (天正十六年)
    壬五月十六日 政宗(花押)

     中島右衛門尉殿

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【279】富沢日向守宛書状写

態為脚力、染一簡候、抑於近日、其口無何事候哉、殊ニ」氏弾弓箭、追日如存分之由候、簡用迄候、兼又、」当備之事、定而不可有其聞候欤、頃日相馬方、田村」椌中乱入、因之、不計此口を出馬、先自相」抱之地、号小手森、去十六拙子以見当責落、」五百余人令撫切、翌日十七、号太蔵之地、」入手裡、同十八、号石沢、及調義候処ニ、其夜」彼地自落、就之、号百内木之地、月山之地、」同前自落、如此之上、相馬方在陣、号舟引之」地、是又、同十九朝悉敗北、本道者、当人衆ニて」押切候間、五百余騎、馬・武具相棄、深山ニ」相懸、敗軍ニ候、今度相人衆、於在々所々討取候」事、誠々不知其数候、此表無残隙明候条、」以時分、旁々遂参会候所、念望迄候、恐々謹言、

 追而、」氏弾へ之書状、」自其元被相」届可給候、以上、

   (天正十六年)伊達
    潤五月廿日 政宗(花押)

     富沢日向守殿参

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【280】色部修理大夫宛書状

態用一簡候、抑当家中ニ候号石川弾正忠令逆心候条、去月十四大森之地江令出馬候、然処、相馬方彼石弾為合力、田村洞中へ出張、到其上去十二田村方在城三春之地可懸取擬候処、田衆中執合押返、百余人討取、則当陣下へ注進候間、翌十三号塩松及早打、同十五号小手森及行、自身打懸令下知候間、即時ニ責敗、五百余人討取候、如此之上、同十八敵地一百目
木、一月山、一石沢、一大蔵、一中山、何モ一時ニ自落、因之、相馬方在陣号舟引之地、是又同十九相敗、相馬方裸ニ而敗軍、絶言句候、本道ニ当人衆ヲ以押切候間、大山中ニ懸被落行候、相人衆悉馬・武具相棄候、今度相之者共、於在々所々討取候事、誠ニ不知其数候、此表之事、無残隙明候間、可御心安候、其口珍敷義候者、囘章可示給候、恐々謹言、(天正十六年)閏五月廿一日 色部修理大夫殿 政宗

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

【3549】資福寺(虎哉宗乙)宛書状

度々御音通弥不斜候、仍如来意之、去」□六日、号小手森、自身虎口へ乗懸、無二ニ責」候之条、一刻之内ニ取敗、数多討捕、同十七日、」号大倉之地、及調儀、町構取敷、繁扱候間、」頻而懇望候条、次日十八日令赦免、其日ニ号」石沢及動、取詰、其夜懸野陣候故、月山・」百目木・石沢・中山一夜ニ自落、所々ニ而、数」多討捕候キ、十九日未明ニ、義胤船引之地、」裸之躰ニ而、本道者、当手之人衆取切候条、」深山ニ相伝、相馬へ被逃候、此口五日之内ニ、」如此隙明候、満足可為御同意候事候、」期来音候、恐之謹言、

 追而、」義胤末代訖之」不足、此度ニ候、」愚之満足」不可過之候、併不討留、」無念之至候、以上、

   (天正十六年)
    潤五月廿一日 政宗(花押)

     資福寺

『仙台市史 資料編13 伊達政宗文書4』

【425】後藤孫兵衛尉宛書状

一後藤孫兵衛信康ニ被下候御書写

当口様躰ニ付而、飛脚為相登候、满足候、依而先達可為其聞候、二日之辛労然以両地属手裏、就中、高玉之事者、前年小手森之様撫切ニ候キ、各人衆等為休息、当地納馬候、珍敷事候者、自是可相理候、将又会津北方筋ニ、可然事共、其身共ニ、於北方遂会面候事も、不相知候、近頃聊尓之事ニ候へ共、無隔心候条、相理候、万慶重而、謹言、

   (天正十七年)
    五月十一日 政宗御書判

     後藤孫兵衛尉殿

同人所持、御記録へ摘載之、

『仙台市史 資料編10 伊達政宗文書1』

貞山公治家記録

天正十三年潤八月条

◯十二日庚辰御出馬信夫郡杉日城ニ御着陣時ニ成実ヨリ青木修理ニ使者ヲ副へテ杉目へ差遣サル修理即チ御目見御腰物ヲ賜フ塩松ノ絵図ヲ作リ指上クへキ旨命セラレ画師ヲ遣サル即チ製シテ献上ス御覧アリテ刈松田近所ヨリ働キ給ハン事ヲ欲セラル然ルニ田村ヨリハ手遠ナリ此度ハ清顕御同陣ノ約アレハ小手森へ働セラルへキ由仰出サル

◯十七日乙酉伊達郡川股ニ御陣ヲ移サル蕨平ニ於テ田村殿へ御対面来ル廿三日小手森へ御働キ有ルヘシト仰合ラル

◯廿三日辛卯大雨小手森御働キ止ム

◯廿四日壬辰 公田村殿同ク小手森城へ御働キ大内備前本城小浜ヲ出テ当城ニ籠レリ且ツ小浜ニ籠ル会津仙道二本松ノ援勢モ小手森近所マテ来ル 公兵ヲ進メ間近ク働キ給フトイへトモ城中固ク守テ出戦ハス殊ニ晩日ニ及フ因テ先ツ打揚ケラル時ニ城中ヨリ人数ヲ出シ 公ノ後陣へ攻懸ル敵兼テ約スト見ヘテ会津勢モ二本松勢ヲ先手トシテ進来リ敵両方ヨリ戦ヲ挑ム 公御旗ヲ返給ヒ軍ヲ分テ三隊トシ一隊ハ城兵ト戦ヒ一隊ハ援勢ト戦ハシメ 公ハ一隊ヲ率ヒテ両隊ノ間ニ陣シ給フ即チ御旗本足軽鉄砲御不断組士鉄砲都合五百挺許リ東ノ山際ヨリ敵勢推切ラント横筋違ニ打懸シメ士卒大ニ進ム城兵援兵共ニ敗績ス城ノ二ノ構マテ追入レ首五十余〔或百余級ト記ス〕討捕ル城兵小口へ入得スシテ南ノ方へ逃走ル者多シ身方追ハントスレハ其傍ニ二本松勢トノ戦アリ此所ヲ追過サハ若シ敵ニ跡ヲ推切ラレン歟ト追捨タリ此日田村ノ勢ハ東ヨリ進ミ御勢ハ北ヨリ働ク其間ニ大山アリ故ニ田村勢ハ此戦ニ関カラス 公五里程引挙ケ給ヒテ野陣ニ宿シ玉フ敵夜討ノ為メニトテ所々ニ斥候等ヲ置キ給フ此夜大内ハ小野主水荒井半内等ニ人数ヲ副ヘテ小手森ニ籠置キ小浜ニ帰ル

◯廿五日癸巳小手森へ推詰メ働玉フ城中又出戦ハス援兵モ長岫〔地ノ名〕ニ備へテ不打出因テ何事ナク人数ヲ揚ケ給ヒ御野陣ヲ少移シ寄ラル

◯廿六日甲午又働セラル城中守テ不出小十郎御前ニ参リ鉄砲ヲ打懸城中ノ様子御覧アルへキ哉ト言ス因テ七八百挺許リ内ノヤラヒへ撃懸シム城中堅固ニシテ騒動セス今日モ空ク打揚ケ玉ヒテ御野陣又少移シ寄ラル成実明日ハ私ノ陣ヲ敵城ノ南ノ竹屋敷へ移シ敵ノ通路ラ把断スへキ間総陣ヲ推詰メラレ然ルヘシト言上セラル 公然ラハ援兵一同ニ後ヨリ相攻メ城中ヨリモ打出ン事必定ナリ両口ノ戦ハ如何アラント仰ラル成実苦ルシカルマシ某竹屋敷へ陣ラ移サハ田村勢ト出逢フヘシ定テ城中ヨリ某ヵ陣所ニ打出へキ間田村勢ト某ニ任セラルヘシ彼援兵トハ総御人数ヲ以テ戦ヒ玉ハヽ両口タリト云フトモ御気遣有ルヘカラス尤モ援兵ノ攻寄ル地形モ切所ナレハ合戦容易ハ存スヘカラス一昨日城兵ノ追込レシ時モ其気遣ト見へテ二本松勢強クハ不戦シテ引揚タル由申上ケラル原田旧拙斎ハ陣ヲ移サル事然ルへカラス御戦モ大事ナリ先ツ数日ヲ経テ後敵ノ様子ニ依テ其義モ然ルへシト申ス老臣半ハ成実ニ同シ半ハ旧拙斎ニ従テ衆議一決セス

◯甘七日乙未成実竹屋敷へ陣ヲ移スノ義昨日衆議未決トイへトモ御意ヲモ不得シテ今朝未明ニ陣ヲ竹屋敷ニ進ム留守上野介殿政景モ相続テ陣ヲ移サル依テ 公総陣進ムへキ旨命セラレ備ヲ移シ野陣ヲ掛タリ然ルニ城中ヨリ一人出テ成実ノ陣ニ向ヒ指物ヲ以テ麾ク人ヲ出シテ問へハ成実ノ家士遠藤下野ニ対面セント欲ス某ハ石川勘解由ト申シテ下野ニ懇切ノ者ナリト云フ下野出テ何事ソト尋ヌレハ此城ニ小野主水荒井半内ヲ始トシテ備前ニ近ク仕ル者多籠レリ今通路ラ断タレ落城日アラス御詫言申シ城ヲ開ケ渡シ小浜へ引退ント欲ス此由成実へ頼入旨申ス成実使ヲ以テ言上ス 公御弓箭ノ果敢行ク事然ルヘキ間召出サルへシ然レトモ小浜へハ遣スへカラス伊達領へ引退クヘシト仰出サル即チ勘解由ヲ呼出シ此旨ヲ報ス勘解由城ニ入テ相談シ又出テ城中ノ者共伊達へ引退ハ命チ助ラン為メナリ此城ラ出テ小浜へ引退ント申故ハ備前切腹モ近日ナルヘシ最後ノ供ヲモ可致ト存ナリ偏ニ成実ヲ頼ミ奉ルト申ス重テ此旨申上ケラルレトモ御許容ナシ因テ下野城門二重ノ内マテ行テ勘解由ニ此由ヲ報ス時ニ 公ヨリ成実へ御使ヲ以テ厳ク攻メ給ハサル故ニ城中如此ノ自由ヲ申出ス早々攻メラルへシ本丸マテ落城セハ城兵伊達へモ引退クへシ此旨諸備へモ命セラル由仰遣サル成実即チ城へ攻懸ケ火ヲ放ツ山城ナル故早速吹上ケ所々ニ火移ル総手ヨリモ推懸ケ火ヲ放ツ因テ城兵役所ヲ離レ度ヲ失ヘリ午刻ヨリ手始メシ申刻ニ至テ本丸落城ス男女八百人許リ一人モ残サス目付ヲ附テ斬殺サル◯此夜新城樵山ノ両城其外数箇所敵自ラ焼キ払テ引退ク

◯廿八日丙申羽州置賜郡長井荘小国城主上郡山民部景為奥州耶麻郡檜原城番後藤孫兵衛信康等ニ各御書ヲ以テ小手森ヲ責落シ給ヒ二百余人討捕リ撫斬其数ヲ不知其外敵ノ要害五簡所同日ニ自ラ落城ス当口ノ事ハ容易ク思召サル旨仰下サル

 上郡山氏姓ハ藤原ナリ景為父ヲ常陸ト称ス諱不知其先不知当家ノ一族ナリ

◯廿九日丁酉未明ニ樵山へ御陣ヲ移サルヘキ由相触ラル因テ成実陣場ヲ可取タメ家士四五騎先へ差遣サル築舘ノ方ヨリ武者一騎乗来リ彼者共ヲ招ク乗向テ間へハ先年成実ノ扶持ヲ得タル服部源内ナリ築舘城兵何レモ引退ク早々追懸ケ給ヘト云フ成実急ニ築舘城へ乗入レ即チ使ヲ馳テ此由ヲ言上セラル 公御馬ヲ移サレ当城ニ於テ休息シ給フ

天正十三年九月条

◯九月丙戌大二日己亥資福寺虎哉和向ニ御書ヲ賜フ其趣去ル甘四日当表ニ於テ合戦敵数多討捕リ小手森二ノ構マテ取破ル近年無比類御手際ナリ同十六日小手森ヘ御近陣翌廿七日御見当ヲ以テ攻敗リ城主ヲ始メ大内親類ノ面々其外男女共ニ悉ク斬殺シ以上八百人許リ討捕リ給フ其御威光ヲ以テ同日五六箇所落城ス去ル廿九日当地槻舘自落ニ付テ即時ニ乗入リ在馬シ給フ猶珍事出来セハ仰越サルヘキノ旨ヲ著サル〔槻舘築舘同〕

『伊達家治家記録 第1』

関連記事

RELATED ARTICLES
小浜城跡
RELATED ARTICLES
市指定史跡 苅松田城跡
RELATED ARTICLES
町指定史跡 河股城跡

小手森城跡へのアクセス

  • 〒964-0202 福島県二本松市針道愛宕森
  • JR東北本線「二本松駅」よりバスで「宮の平」下車、徒歩10分
  • 東北自動車道「二本松IC」より車で30分
  • 国道349号線沿いに城址への案内板あり

月夜山 最勝寺へのアクセス

  • 〒964-0201 福島県二本松市戸沢月夜畑90
  • JR東北本線「二本松駅」よりバスで「東和支所前」下車、徒歩31分
  • 東北自動車道「二本松IC」より車で33分
  • 安達三十三観音第三番札所

参考文献

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1981)『角川日本地名大辞典7 福島県』角川書店.
  • 庄司吉之助・小林清治・誉田宏 編(1993)『日本歴史地名体系7 福島県の地名』平凡社.
  • 米沢市史編さん委員会編(1997)『米沢市史 第一巻 原始・古代・中世編』米沢市.
  • 岩代町史編纂委員会編(1995)『岩代町史 第1巻 通史編』岩代町.
  • 東和町史編纂委員会編(1983)『東和町史 第1巻 通史・旧村沿革』東和町.
  • 本宮町史編纂委員会編(2002)『本宮町史 第1巻 通史編1 原始・古代・中世』本宮町.
  • 二本松歴史研究会編(1993)『あだち浪漫街道』安達地方広域行政組合.
  • 福島県教育委員会編(1988)『福島県の中世城館跡』福島県教育委員会.
  • 福島民報社編(2007)『武者たちの舞台 ふくしま紀行 城と館 上巻』福島民報社.
  • 仙台市史編さん委員会編(1994)『仙台市史 史料編10 伊達政宗文書1』仙台市.
  • 仙台市史編さん委員会編(2007)『仙台市史 史料編13 伊達政宗文書4』仙台市.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

書き出しに戻る
Close
著者一覧