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菅沢山/直江山城守本陣跡

慶長五年(1600)九月、慶長出羽合戦の長谷堂城をめぐる戦いにおいて、直江兼続が本陣を据えた場所と伝わり、春日元忠、上泉安綱、色部光長、水原親憲らが山麓に布陣したという。

菅沢山/直江山城守本陣跡の来歴

直江兼続本陣趾

慶長五年(西暦一六〇〇年)九月、天下の行方に 大きく影響したと言われる戦いが長谷堂城を中心に繰り広げられました。

隣国にあって百二十万石の領地を持つ上杉景勝軍は最上義光の山形城を攻略すべく二万と言われる兵で支城の長谷堂城を取り囲みました。

この地は上杉軍の総大将だった直江兼続が本陣を構えた場所であり、当時は雲澤院という寺が建っていました。ここからは長谷堂城が間近に臨め、半月間にも及ぶ戦いの指揮を執っていたと考えられます。近くには当時飲んだであろうと言われる岩井戸があります。

時を同じくして行われた関ヶ原合戦で西軍敗戦の知らせを受けた兼続は整然と兵を引き上げたと語り継がれています。

山形市 YAMAGATA CITY

『現地案内板』より

直江山城守本陣跡

慶長五年(一六〇〇)の秋九月、上杉景勝の命をうけた米沢城主直江山城守兼続は、二万といわれる大軍で、山形城へ攻め寄せた。 その主力は直江が指揮する精鋭部隊で、旧九月十三日畑谷城を陥し勢いに乗った直江軍の物見役は、早くも、菅沢山に入っていた。時は十三夜、おどろいた村の衆は餅を喰わずに逃げたので「十三夜の餅は早く喰え」と、いまでも伝えられている。翌十四日には、総大将山城守が到着して、本陣を構えて半月。長谷堂城主志村伊豆守勢と史上に残る激しい戦いをくり返したが、頑強な長谷堂城と勇敢な長谷堂勢の抵抗で城を陥す事が出来ず、遂に関ヶ原の西軍敗報を受けて、十月一日深い朝靄の中を全軍引きあげた。

本沢振興協議会
平成八年七月 本沢郷土研究会

『現地案内板』より

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長谷堂城跡

菅沢山/直江山城守本陣跡へのアクセス

  • 〒990-2362 山形県山形市菅沢
  • JR東日本「山形駅」よりバスで「長谷堂」下車、徒歩14分
  • 東北中央自動車道「山形中央IC」より車で15分
  • 東北中央自動車道「山形上山IC」より車で13分

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