北の関ヶ原とも称される長谷堂合戦で討死となった両軍戦没者の碑
山形県中央部東寄り、山形盆地の南部に位置する山形市。市内南西部に最上氏時代の支城、長谷堂城の城下町であった旧長谷堂村(現山形市長谷堂ほか)があり、その周囲には、慶長五年(1600)関ヶ原の戦に伴う長谷堂合戦(慶長出羽合戦)で討死した両軍戦没者の碑が建立されています。
主水塚(旧長谷堂村)
慶長五年(1600)米沢より侵攻する上杉の直江軍と、それを迎え撃つため長谷堂城より出陣した志村伊豆守光安の軍勢とが死闘を繰り広げ、直江配下の武将上泉主水泰綱が壮烈な討死を遂げたところと伝わります。合戦後、村人らが両軍の戦死者二百余人を手厚く埋葬し、その土墳は主水塚と呼ばれました。
主水塚(旧柏倉村)
慶長五年(1600)畑谷城を攻め落とした上杉の直江軍は、勢いに乗じて長谷堂城を攻略しようとしていた矢先、関ヶ原の戦いにおいて西軍が惨敗したとの知らせを受けます。剣豪神陰流の使い手上泉主水泰綱は、時の不運を承知で最上軍に切り込み、壮絶な最期を遂げここに葬られたと伝わります。
加藤掃部左衛門の碑
最上義光の妹で伊達政宗の生母である保春院(義姫)の警護役として仕えた最上家の家臣、加藤掃部左衛門清次の碑で、昵懇の仲であった畑谷城主の江口五兵衛光清が上杉軍に討たれたことに憤激して長谷堂合戦に参戦するも、清次もまた長谷堂城北方のこの近辺で討死したと伝えられています。
湯目加賀守重旧の碑
慶長五年(1600)慶長出羽合戦時、伊達政宗の命により山形の最上家援軍として派遣され、遅沢川付近で上杉軍と奮戦討死した湯目加賀守重旧の碑で、現在地より西方一〇〇㍍、周囲三〇㍍、高さ三㍍の塚に葬られ、五輪塔が建てられていましたが、圃場整備の際、粘土郭が発見され灰と人骨が確認されました。
主水塚(旧長谷堂村)へのアクセス
- 〒990-2341 山形県山形市大師堂
- 奥羽本線「蔵王駅」より車で7分
- 東北中央自動車道「山形中央IC」より車で14分
主水塚(旧柏倉村)へのアクセス
- 〒990-2341 山形県山形市柏倉
- 奥羽本線「蔵王駅」より車で11分
- 東北中央自動車道「山形中央IC」より車で16分
加藤掃部左衛門の碑へのアクセス
- 〒990-2361 山形県山形市百目鬼
- 奥羽本線「蔵王駅」より車で7分
- 東北中央自動車道「山形上山IC」より車で11分
湯目加賀守重旧の碑へのアクセス
- 〒990-2352 山形県山形市前明石
- 奥羽本線「蔵王駅」より車で7分
- 東北中央自動車道「山形中央IC」より車で12分