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大義山 覚照寺/宮床伊達家廟所

寛文六年(1666)瑞巌寺鵬雲の開山、伊達宗房を開基とする宮床伊達家の菩提寺で、はじめ慶雲寺と称したが、享保三年(1718)現寺号に改めたという。

大義山 覚照寺/宮床伊達家廟所の来歴

風土記御用書出

黑川郡宮床村覚照寺書出

臨済宗大義山覚照寺

一開山之事 当寺ハ宮城郡高城郷松嶋村青龍山円福瑞岩寺開山法身禅師百一世雲居和尚寛文六年開山ニ付当安永三年迄百九年ニ罷成候事

◯一小名在名之事

一故事来歴之事 当寺ハ祥光寺と申候旧寺跡再興仕候処右寺跡何方ニ在之候と申儀相知不申候開基ハ伊達肥前宗房ニ御座候処寛文六年六月右旧寺祥光寺を当村江相移大義山慶雲寺と相改申候右慶雲寺ハ肥前宗房母義慶雲院為菩提建立仕鵬雲和尚開山ニ相立申候其後 獅山様御代享保三年九月覚照寺と被相改候同十五年 御上より客殿并廊下御造営有之候処寛保三年正月廿五日焼失仕候ニ付又以同年五月客殿并廊下如本御造営被成下候事

 一寺領 三貫文
  右ハ元禄十年 肯山様御代御寄附有之候事

 一覚照院殿御仏供米 拾石 正徳四年二月
 一貞樹院殿御仏供米 五石 享保十七年七月
  右ハ 獅山様より御寄附被遊候事

一本山并末寺之事 本山ハ京都花園正法山妙心寺ニ御座候当寺境内塔頭一ケ寺有之候ニ付左ニ書上仕候事

清心庵

右ハ鵬雲和尚法弟当寺二世仙翁竺座元ニ御座候処右年月相 知不申候事

一寺列之事 御返盃格之着座ニ御座候事

◯一最初之地移住之事

一御墓所并御位牌等之事
 一覚照院殿 一貞樹院殿 右御廟御座候処御本堂并廊下拝殿共ニ 獅山様御建立ニ御座候事
 一慶雲院殿 右御廟何も御額等之儀ハ村書出ニ委細書上仕候

一御成并御詠歌等都而拝領物等之事 獅山様御代御参観御下向之毎度ニ御参詣在之其時々寺江も被為入候 忠山様ニも元文弐年八月八日延享元年八月八日両度御参詣在之寺江も被為入候両御代共ニ先住拝領物等被仰付御意等御座候事

一御目見被仰付御意等在之候事 御代替并当寺住持替又ハ毎年始正月五日御目見仕十帖壱本献上仕候事

一古キ什物等之事

(中略)

◯一古キ墓所之事

一別当所之事 寺内聖観音堂
 右ハ肥前宗房代延宝弐年慶雲院為菩提造営仕候間数并額等之儀ハ村書出ニ委細書上仕候事

(後略)

『宮城県史24 資料篇2』

伊達宗房公について

宮床舘主初代宗房は、仙台藩二代忠宗の八男で政宗の孫に当 る。母は側室小笹(山戸土佐の娘)で、正保三年(1646)青葉城に生まれた。

四才で田手高実の嫡女に配され、岩手県口内村(北上市)で、一七〇〇石を賜わり、はじめ田手肥前宗房と称した。

万治二年(1659)十四才のとき、伊達姓を許され一門に列せられた。
一門の家格、一門(11人)一家(17人)准一家(8人)一族(22人)宿老(3人)着座(33人)以下略

翌年、在所を宮床村に移し、小野村を合わせて三〇〇〇石となる(二代村興のとき八〇〇〇石)。築城、屋敷割、社寺の建立等に力を尽し、夫人松と共に厚く神仏を崇め宮家のいしずえを築いた。

領主の居城は田手岡館(通称御殿山)と呼ばれ、往時の遺構はないが、土塁や石垣の跡から盛時を偲ぶことはできる。

待屋敷一〇七、寺屋敷四、足軽屋敷九六、町屋敷八三、
寛文六年(一六六六)21才 ◯宮床館、落成 ◯生母菩提のため、慶雲寺建立、後に覚照寺と改める。 ◯龍岩寺(養父高実の基あり)を移し、田手氏の位牌所とする。
寛文七年(一六六七)22才 ◯正室田手高実娘没。24才法林院殿安室妙全尼大姉
延宝元年(一六七三)28才 ◯新田八幡宮を建てる。
延宝二年(一六七四)29才 ◯藤原氏の氏神、春日宮を新田八幡境内に勧請する。
延宝三年(一六七五)30才 ◯生母の両親善提のため、清心庵を慶雲寺地内に建てる。
延宝四年(一六七六)31才 ◯宗房後室、片倉小十郎景長娘、松入輿。
延宝八年(一六八〇)35才 ◯田千氏の祈願所法花寺を大原より宮床に移し、後に栄法寺と改める。

貞享三年(1686)一月十三日、伊達肥前宗房、宮床舘に没す。
  享年四十一才、覚照寺殿悟山了実大居士

なお宗家の長子村房は仙台藩五代藩主、吉村(獅山公)である。

御霊屋について

慶雲院霊屋の礎石ははっきり残っているが宗房、松の光雲殿(3×5)は明治初年に取りこわされ墓石はその後に建てられたものと思われる。

昭和六十年十月十三日
  宗房公三百年忌法要式典実行委員会

『現地案内板』より

宮床伊達家廟所について

宮床覚照寺保存会(一九七七年八月)

覚照寺の創建に深いかかわりを持つところの、この宮床伊達家墓地は、それがまた封建領主の墓らしく、その規模や形態に特徴があるだけでなく、それ自体が一種の砦を形づくっているのである。

(覚照寺は、宮床領主初代宗房(伊達政宗の孫)の長子で、後に仙台伊達家の五代を継いだ獅山公吉村によって建立されたものである。)

この廟も吉村によって造営されたが、その後に(四代村嘉以降)拡張整備され二代以下は、隣接して別の一郭の墓地を築き、その他一族の夭折者のそれと、さらに初代関係者の分の南を拡張して、全体が三ブロックで構成され、それぞれが桝形の囲いと屈折した道により、独特な環境を造り出している。

さらに、西南には孤立して宗房初室(田手氏)法林院の墓地もあるが、安永風土記に見られる廟建築はすべて失われて久しい。-大和町史による-

『現地案内板』より

大義山 覚照寺へのアクセス

  • 〒981-3624 宮城県黒川郡大和町宮床大椚69
  • 東北自動車道「大和IC」より車で16分
  • 仙台北部道路「富谷IC」より車で12分
  • 東北自動車道「泉IC」より車で17分

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