高松山 観音寺の来歴
和木沢村
高松山 観音寺
字高松松林鬱蒼たる中に在り、抑当山は平城天皇の御宇大同二年徳一大師の開基にして、顕密弘通の霊場なり。大師勤行の暇に、霊木を求めて手づから薬師如来の尊像十二神将及び釈迦地蔵を彫刻し、麓の御堂に納む。此霊場や巓には月山・羽山・羽黒権現を勧請し、 四辺の風致亦絶佳にして、峰には古松枝を垂れ、無為常楽の風声あるが故に高松と唱ふと。谷には流泉所々に湧出し煩悩の汚穢を清め、春時は松間の花卉咲き乱れて人の眼を歓ばしめ、秋季は紅葉色を争ひ満山錦を装ふ。山腹には白山山王其他諸佛神の堂社あり、就中医王善逝は一切衆生に良薬を与へ、痼労疾病の難症を除き、十二神将は悪魔降伏の力を添ふと。是故に源義家は東夷征伐の途比山に参籠し、治承年中には文覚上人数月錫を留め勤行あり、其石壇苔滑かにして今猶山中にあり。加之文覚上人出山の時随喜の除り笈仏の本尊不動明王を当寺に納めら れ、爾後正七の大僧闕くることなく、麃民挙りて信仰したるなり、浄財を募り、学頭を首め十二坊を建立し、堂舎・佛閣・鐘楼・三重の塔を設け国家安全を祈りしに、天正年中伊達政宗攻略の際兵燹に罹り烏有に帰し、梵鐘亦阿武隈川に沈没して再び上らず、水上渦をなして船筏の通行危険の所あり、之を鐘ヶ淵と名づく。此所より高松山へ時々龍燈騰り暗夜も白昼の如きとあり、故に当寺を常光明山と称す。其後文禄年間定覚和尚中興し、会津の太守加藤左馬之助嘉明若干の寺領を寄附せられ、護摩供大般若を修行し、近郷は水口祭と唱へ午王の札を頒布せり。其板木今寺内に存す。又弘法大師作の薬師如来並に唐画の十六善神は当寺の什宝にして、今の梵鐘は宝暦四年乗伝和尚の鋳造せしむる所なり。然るに明治維新に際し、神仏混淆改正の布達に従ひ、羽黒大権現を村社とす。
『安達郡誌』
高松山 観音寺へのアクセス
- 〒969-1204 福島県本宮市糠沢高松27
- JR東北本線「本宮駅」よりバスで「仁井田富士内」下車、徒歩26分
- 東北自動車道「本宮IC」より車で7分