ローダーイメージ
Night Mode Night Mode
Day Mode Day Mode

百目木城跡

もと石橋氏の家臣で田村清顕に属した石川弾正の居城とされ、清顕没後は伊達氏に降るも、白石宗実の配下に付されたことを不服に思い、遂には政宗に叛いたという。

百目木城跡の来歴

百目木城址

永禄年間(1558〜69)から天正16(1588)年にかけて石川弾正及びその父摂津守が居城し、百目木・田沢周辺を領していた。石川氏は天正8(1580)年、小浜城主大内定綱らとともに主家石橋氏を相馬に追い、同13(1585)年9月、伊達政宗と大内定綱の戦の際に伊達方として戦功があり小手森城(現東和町)を与えられたが、小浜城主となった政宗の家臣、白石若狭の支配下におかれたのを不服とし、同16(1588)年5月、相馬を後盾として政宗に反乱を起こした。石川氏はこの一戦で相馬に敗走し、その後会津の上杉氏に 仕えるなどしてまた百目木にもどったと云われる。名目津壇は、政宗と石川氏の戦での死者を葬ったところと伝えられる。

岩代町教育委員会

『現地案内板』より

貞山公治家記録

天正十六年(1588)四月条

◯十一日甲子晩鉄砲野ニ御出◯塩松ヨリ白石右衛門飛脚ヲ以テ百目木ノ輩百余人討捕ルノ由注進ス百日木城ハ石川弾正抱ヘノ地ニシテ弾正父石川摂津〔諱不知〕住セリ相馬境ナリ◯田村右馬清通ヨリ飛脚来ル

天正十六年(1588)五月条

◯廿日壬寅天晴大越紀伊田村右馬通使者来ル◯黒木中務及ヒ青木弾正参上◯梁川ヨリ所献ノ馬二匹乗ラセラル◯中津川ヨリ会津北方ヘ草ヲ入レ首十三討捕リ八人生捕ル由注進ス◯常州ノ佐竹ヘ桑島法印道蝸斎御使トシテ差遣サル◯大森ノ輩草調儀シ百目木ヨリ相馬ニ通ル者ヲ搦捕リ其所持ノ書状ヲ取テ献上ス其状ニ心替リノ者百二十七人ト云云

『伊達家治家記録 第1』

関連記事

RELATED ARTICLES
小手森城跡
RELATED ARTICLES
名目津壇

百目木城跡/本館へのアクセス

  • 〒964-0433 福島県二本松市百目木
  • JR磐越東線「舟引駅」よりバスで「百目木」下車、徒歩10分
  • 磐越自動車道「舟引三春IC」より車で22分

百目木城前館跡へのアクセス

  • 〒964-0433 福島県二本松市百目木向町
  • JR磐越東線「舟引駅」よりバスで「茂原入口」下車、徒歩7分
  • 磐越自動車道「舟引三春IC」より車で20分

百目木城旧館跡へのアクセス

  • 〒964-0433 福島県二本松市百目木下名目津
  • JR磐越東線「舟引駅」よりバスで「搦手」下車、徒歩30分
  • 磐越自動車道「舟引三春IC」より車で26分

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

書き出しに戻る
Close