宝池山 蓮蔵寺の来歴
蓮蔵寺の由緒
宗派 真言宗智山派
名称 寶池山聖光院宮本坊蓮蔵寺
開山 不明
中興 天正十五年 法印俊雄和尚
本尊 金剛界大日如来
脇仏 不動明王 愛染明王 馬頭観音 地蔵菩薩 子安観音
山門 金剛力士像(仁王)
御堂 實専堂 三界堂(ペット供養)
末寺末山 二十三ヶ寺縁起
蓮蔵寺の前身は平安時代の末期、弘法大師空海の法子である京都東寺長者實慧僧正の弟子である實源上人が大刈田山頂に壇を設けて疫病退散を祈願する為、薬師護摩法を修したことが縁起である。以後、大刈田山は薬師ヶ嶺とも呼ばれるようになり、實源上人の草庵が願行寺の起源であるとされる。
願行寺は末寺四十八寺院を有するまでに至ったが、文正(1466)、応仁(1467~1468)の乱による戦難にあい、奥州藤原氏の衰退と共に宮本坊(現蓮蔵寺)、岳の坊(現遠刈田金峰寺)、山の坊(蔵王寺)の三坊を残すだけとなった。
天正年間(1573~1592)宮本坊に俊雄卓彦という名僧がおり、伊達政宗がその声望を喜び、現在地に寺門を建立し戦祈祈願を行った。当時その地に一大蓮の池があったことから「寶池山」の山号と「蓮蔵寺」の寺号と寺領年々二百石を授かり、宮本坊俊雄を中興第一世とした。
その後、明治維新による神仏分離令、並びに廃仏毀釈にあい仏堂、伽藍、関係諸院、書類等の殆どが消失。当時二十七代住職である一詳和尚は刈田嶺神社の別当となることを望み、名刹蓮蔵寺は廃寺となった。
明治十二年(1879)二十八代住職である貫三和尚が法縁離散を嘆き、蓮蔵寺の復興を発願。迫害と闘いながらも裁判により目的を達成し、茅舎を建立した。曲竹地区の豪農である菊原家を苦心し解体し、馬車にて運搬の上再建されたものが前本堂である。
現本堂は檀信徒の仏心両面による志納と篤信者のご寄進により平成十年四月に建立された。現在中興三十二世、今日に至る。
『現地案内板』より
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刈田嶺神社/白鳥古碑群
宝池山 蓮蔵寺へのアクセス
- 〒989-0701 宮城県刈田郡蔵王町宮町123
- JR東北本線「東白石駅」より徒歩23分
- 東北自動車道「白石IC」より車で3分