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小松城跡

伊達輝宗に反旗を翻した中野宗時・牧野久仲父子が一族郎党を集めて籠城した城館跡で、主郭を囲む土塁や堀跡が今も残る。

小松城跡の来歴

山形県南部、最上川上流の松川左岸に位置する東置賜郡川西町。町域の北東部、南西から北東に貫流する犬川流域に旧置賜郡中小松村(現川西町中小松・小松)があり、同河川右岸の新山中学校跡地には、伊達氏重臣中野常陸介宗時の策謀により端を発する「元亀の叛」の舞台となった城館、小松城があります。

小松城は、東西一〇〇㍍、南北二五〇㍍の規模を持つ連郭式の平城で、西辺から北辺に沿って流れる犬川を天然の外堀となし、土塁と堀で囲まれた主郭を挟み北郭と南郭が配されていました。公園や学校敷地として利用されたため遺構は徐々に壊されるも、主郭を囲む土塁が今も残り、堀も痕跡を残しています。

小松城は、初め長井氏家臣の船山因幡守重家がいたとされ、伊達氏の置賜侵攻後は大町氏、後に桑折氏、天文の乱後は重臣中野宗時の子で、牧野氏の養子となっていた久仲が居城としました。元亀元年(1570)四月四日、輝宗に対する謀反が露見した宗時は、一族郎党を集め、久仲がいる小松城に籠城しました。

輝宗は即刻討伐軍を編成して城を囲み、翌日未明の攻撃で宗時・久仲らは城下を焼いて逃亡。刈田郡宮村の河原に出たところで駆けつけた亘理元宗・重宗に迎撃され、相馬に逃れました。宗時が前主君晴宗に帰参を願い、実元が宗時・久仲を大森城に匿うも対面は許されず、失意のもと相馬に還ったといいます。

また、城下を逃亡する宗時・久仲らを見逃した高畠城主小梁川中務盛宗は、輝宗から切腹を命ぜられるも遠藤基信の取り成しによって許されたといいます。現在城跡には、米沢藩四代藩主上杉綱憲病気平癒祈願の命があるという新山神社が鎮座し、主郭南側には有志によって建てられた城址碑が残されています。

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小松城跡へのアクセス

  • 〒999-0122 山形県東置賜郡川西町大字中小松
  • 米坂線「羽前小松駅」より徒歩9分
  • 東北中央自動車道「南陽高畠IC」より車で18分
  • 東北中央自動車道「米沢北IC」より車で19分

参考文献

  • 川西町史編さん委員会編(1979)『川西町史 上巻』川西町.
  • 川西町史編さん委員会編(1986)『川西町史 下巻』川西町.
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会編(1981)『角川日本地名大辞典6 山形県』角川書店.
  • 平井聖・ほか編(1981)『日本城郭体系3 山形・宮城・福島』新人物往来社.
  • 長井政太郎 編(1990)『日本歴史地名体系6 山形県の地名』平凡社.
  • 山形県教育委員会編(1995)『山形県中世城館遺跡調査報告書 第1集(置賜地域)』山形県教育委員会.
  • 南奥羽戦国史研究会編(2020)『伊達政宗 戦国から近世へ』岩田書院.

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