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宮崎城跡

大崎氏の有力家臣笠原氏の居城で、葛西大崎一揆の際には一揆側の拠点となり、政宗は笠原民部らが守る当城を攻撃、浜田伊豆景隆ら多数が戦死したが、城中からの失火により遂には落城した。

宮崎城跡の来歴

宮崎城跡

この城は、典型的な中世の山城で、大崎氏時代には三大名城の一つといわれ、自然の要害の地であった。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐後の奥州仕置きで大崎氏の領地は没収され秀吉の臣木村氏に与えられた。木村氏の政策に対する不満が一揆の蜂起につながり、天正19年(1591年)旧城主笠原民部を大将に笠原党3千人余りが立てこもり、伊達政宗の軍勢1万人余りと戦った。旧暦6月24日、25日の2日間の激戦の末、落城した。この戦いで笠原民部は一子隆元と数人の家来に守られて、出羽(山形)に逃れた。

伊達軍は智将といわれた浜田伊豆(墓は桧葉野にあり)を始め、20名程の武将が戦死したほか、足軽百人余りが討死した。落城の時捕虜となった者2百人余りは、翌26日、城の北側の流れの沢で斬首されたと伝えられている。

加美町教育委員会

『現地案内板』より

風土記御用書出

賀美郡宮崎村風土記御用書出

宮崎村

一古館 壹ツ
 一宮崎館 南北四拾間 東西四拾間 御城主大崎御家臣笠原民部様御住居之由申伝候右年月相知不申候事

『宮城県史 第28(資料篇 第6)』

宮崎城跡へのアクセス

  • 〒981-4401 宮城県加美郡加美町宮崎麓三番
  • JR陸羽東線「西古川駅」より車で27分
  • 東北自動車道「古川IC」より車で36分

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