北目城跡の来歴
慶長五年(1600)七月十二日条
○七月甲申大十二日癸丑 公名取郡北目城ニ御着伏見ヨリ中山道ヲ経テ御下向ナリ御国ヘノ本道ハ景勝ノ領地ヲ歴ルニ依テ遠慮シ給ヒ上野国高崎ヨリ下野常陸ニ御出磐城相馬ヲ経給フ相馬長門守殿義胤ハ 当家ト御親族ナリ然レトモ比年旧怨アルヲ以テ義胤気遣セラルニヤ城下ヲ通リ玉ハサル様ニ新道ヲ開テ 公ヲ通ラシメ玉フ時ニ御迎ヒトシテ岩出山城御留守居屋代勘解由兵衛景頼御人数許多ヲ引具シ相馬境マテ出迎ヒ御供シ奉ル今日北目御着ナリ景勝領地ヘ御働キノタメ直ニ北目ニ御在陣ナリ
『貞山公治家記録 巻之二十上』
慶長五年(1600)七月廿一日条
○廿一日壬戌 公白石城ヘ御働キトシテ北目御出陣亘理右近殿定宗屋代勘解由兵衛景頼両人御先手ナリ亘理右近殿ハ美濃殿重宗嫡子ナリ(美濃殿旧名ハ兵庫ト称ス美濃ト改ラル年月不知)○今夜名取郡岩沼城ニ御宿陣
『貞山公治家記録 巻之二十上』
慶長五年(1600)八月十四日条
○十四日乙酉 公白石城ヨリ北目城ヘ御入馬白石城ニハ石川大和守殿昭光ニ人数二千余人相副へ入置カル 公先頃白石ヲ攻取リ玉フ以後直ニ伊達郡桑折表ヘ出張シ玉フヘシト思召サル処ニ石田治部少輔謀反ニ就テ 大神君小山ヨリ江戸ヘ御帰城ノ由去ル七日御書ヲ賜フ因テ会津ノ事関東口ヨリ御取詰ナキ時ハ 公御一人ニシテ働キ玉フ事如何ニ思召サル且ツ上方ノ様子彼是重テノ御一左右ヲ聞召サレ其後働キニ及ハルヘシト先ツ今日御入馬ナリ
『貞山公治家記録 巻之二十上』
慶長五年(1600)九月十五日条
○十五日乙卯夜出羽守殿ヨリ嫡男修理大夫殿義康ヲ北目城ヘ差越サレ御加勢ヲ請ハル○亥刻伊達上野介殿ヘ御書遣サル義光御子息修理大夫殿事義光ヨリ御使ノ由ニテ山形ヨリ日懸ケニ只今此地マテ御越ナリ今ニ御用ノ様子ハ聞召サレス兎角談合シ玉ヒタク思召サル明日早天ニ御越アルヘシ必ス待セラル定テ御助勢御懇望ノ御使ニヤト思召サル明日萬々仰セラルヘキノ旨著サル
『貞山公治家記録 巻之二十上』
慶長五年(1600)十月五日条
○五日乙亥 公伊達表御調議トシテ北目城ヲ出馬シ玉フ最前直江山城守最上ヘ攻入ノ時景勝自身出陣スヘキニ於テハ 公モ最上ヘ出馬シ玉フヘシ且又景勝家中歴々ノ者共ハ大半最上ヘ発向ノ由其聞ヘアリ此節 公ハ長井口歟伊達筋ヘ御働キ然ルヘキ哉様子見分ノタメ最上表ヘ鈴木七右衛門ヲ差遣サル然ルニ景勝出陣ナシ因テ敵ノ空虚ニ乗シテ伊達筋ヨリ働キ玉フヘシト思召サレ白川境マテモ関東ノ御人数ヲ差向ラルニ於テハ伊達筋ヨリ仙道ヘ出張シ玉ヒ御手ヲ合セラルヘキ由結城少将秀康朝臣及ヒ御留守居本多佐渡守殿正信石川日向守殿家成ヘ追々仰進セラルトイヘトモ関東口ヨリノ御働ナシ故ニ猶予セラル然ルニ直江山城守朔日ノ戦ヒニ敗北シ二日朝米沢ヘ引退クノ由註進アリ此上ハ御加勢ノ人数モ帰陣スヘキノ間伊達筋ヘ御働キアルヘキ由議定セラレ御出馬ト云云
『貞山公治家記録 巻之二十下』
慶長五年(1600)十月七日条
○七日丁丑 公国見山ヨリ北目城ヘ御帰陣内々今日伊達郡梁川城ヘ御働キアルヘシト昨日仰セラルトイヘトモ梁川城内ヘ内通ノ謀略不調ニヤ又別ニ御思慮モアリシニヤ相止ラル国見山陣払トシテ津田民部御跡ニ備居ル石川大和守殿高野壱岐等ハ大隈川ノ岸辺ニ沿テ人数ヲ引揚ラル然ルニ梁川城ヨリ足軽共少々川岸マテ出向テ鉄砲ヲ打懸タリ民部視テ敵方ヨリ仕懸ル間此方ヨリ出向テ味方ノ人数ヲ心安ク引揚サセ可然哉ト相議ス時ニ舟山伊賀聞テ此方ヨリ出向フニ於テハ引揚ル味方モ又打返シ相戦フヘシ然ラハ先勢ハ御旗本ヲ初メトシテ五里十里ヲ隔テ既ニ引揚タレハ小勢ヲ以テ殿シ相戦ハヽ最早日暮ニ及テ勝利ヲ得ル事難カルヘシ只備ヲ動サスシテ川岸ノ味方ヲ引揚サセ可然由申ス民部其議ニ従テ備ヲ不乱様ニト下知ス爰ニ民部親族ニ飯坂修理ト云者アリ単騎ニシテ備ヲ乗出シ敵ノ方ヘ進ム民部自ラ太刀ヲ抜テ追懸ケ下知ヲ背ク事勿体ナシト大ニ怒テ引留ム此時節若シ一戦及ハヽ小勢ト云ヒ日暮ニ及フト云ヒ味方勝利ヲ得難カルヘキニ伊賀能見計ラヒタリト陣中感嘆ス
『貞山公治家記録 巻之二十下』
慶長五年(1600)十月下旬条
○下旬最上出羽守殿今度御加勢ノ御礼トシテ来リ謝セラル北目城ヘハ入リ給ハス国分薬師堂別当坊ニ一宿セラレ其翌日最上ヘ帰リ玉フ此節上野介殿ヘ出羽守殿ヨリノ返状アリ左ニ載ス
尊礼拝見殊今度参上之処色々御馳走政宗御前ニテ之御取合共忝存候剰即態之御脚力御精入候儀共候自此方モ昨日一礼申述候間定而可為参着候罷帰之砌者於山中風吹ニ逢候而散々体ニ而令迷惑候ツル将又庄内之儀御床敷之由前日已来干今到来モ無之候依様子従是可申入候又夜前拙者内之者共余多大坂ヨリ罷下候申候分者弥御静謐之由申候併西国之御人数遣有之由申候定而此等之儀モ急度事済候ハント申候尚期後時候恐惶謹言
尚石田治部大蔵安国寺ナト御成敗候テ三條之橋ニタイニスヘサラサセラレ候ヨシ見候而参候尚カシコ山出羽守 義光書判
十月廿二日 伊上州様
御報
一説ニ出羽守殿ハ来リ玉ハス子息修理大夫殿ヲ御礼トシテ差進セラルト有リ然レトモ此出羽守殿書中分明ニ自身来リ給フト見ヘタリ廿二日ノ日付ハ誤リ書スルナルヘシ廿日マテハ上野介殿最上表ニ在陣ト見ヘタリ右書状ニ昨日一礼申述ト有レハ廿日ニ出羽守殿御国ヘ来ラレ廿一日還ラレ即チ使礼ヲ遣サルニ非レハ合ハス出羽守殿御出ハ何様廿五六日比ナルヘシ因テ此書状下旬ノ下ニ入レテ廿二日ヲ不挙
『貞山公治家記録 巻之二十下』
慶長五年(1600)十二月廿四日・廿六日条
○十二月己丑小廿四日甲午辰刻 公千代城ヘ御出御普請御縄張始メアリ文字ヲ仙台ト改ラル昔時此城ノ側ニ千躰佛アリ因テ千躰ト合ス其後文字ヲ千代ト改ム此城元ハ国分ノ前主国分能登守殿盛氏先祖ヨリ居住セラルト云云○晩御普請初ノ御祝儀御能五番アリ高砂田村野宮養老猩々ナリ
○廿六日丙申 公北目城ニ御帰
『貞山公治家記録 巻之二十下』
慶長六年(1601)正月朔日条
慶長六年辛丑 公御年三十五
正月庚寅大朔日庚子名取郡北目城ニ於テ御祝儀アリ
『貞山公治家記録 巻之二十一』
慶長六年(1601)九月十日条
○九月戊戌大十日甲辰 公御上洛トシテ岩出山御発駕伏見ヨリノ御左右ハ今ニナシトイヘトモ此節今井宗薫ヨリ申来ル旨アルニ因テナリ
是ヨリ前何時北目城ヨリ岩出山ニ御入馬アリシヤ不知
此後野刕宇都宮御一宿ノ節今井宗薫ヨリノ書状到着ス其趣釜石一揆ノ者共ノ鼻南部ヘ差下サレ南部モ者共ニ見セラルヘキ旨 大神君御意ノ旨著セリ因テ右ノ鼻共上方ヘ差上クル事相止メ南部ヘ差遣スヘキ旨御国ヘ仰遣サル(宗薫書状不伝到来ノ日不知)
『貞山公治家記録 巻之二十一』
仙台領古城書立之覚
郡山村
一喜多目城 東西四十六間 南北五十六間
『宮城縣史32 資料篇9』
四方堀有リ幅八間只今田畑ニ成曲輪南二十四間西百十六間北百六十間東百五十四間東ノ方川西ニ土手形有リ二重堀形有リ右四方堀ノ外也
右城主粟野大膳茂ヶ崎ゟ取移天正年中迄罷在候其以後政宗家来屋代勘解由兵衛ト申者指置被申候政宗一両年此城ニ居被申候事
北目城跡へのアクセス
- 〒982-0003 宮城県仙台市太白区郡山4丁目
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